【日本の天皇と王権】  

2019.6.7.

日本文明研究分科会会長 / 国際日本文化研究センター 名誉教授 今谷 明

<青銅時代の君主国>
 神話と歴史の分岐点を定めるのは難しいが、日本の場合は2世紀半ば頃であろう。奈良県の箸墓古墳は宮内庁の治定では、崇神天皇の大姨(おおおば)ヤマトトトヒモモソ媛(ひめ)が被葬者とされている。トトヒモモソ媛はシャーマンである旨紀記に記されており、『魏志倭人伝』にいう卑弥呼も「事鬼道」と記され、シャーマンとして描かれる。箸墓は最古の前方後円墳の一つであり、直径は、卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」一致する。かくて卑弥呼=トトヒモモソ媛とすれば台与(トヨ)は崇神天皇の娘である豊鍬入媛(トヨスキイリヒメ)と同一人物であろう。こうして初代の天皇は崇神天皇であることがほぼ確定する。紀記ともに崇神天皇をハツクニシラススメラミコトと称しているからである。
 AD391年に倭(日本)が渡海して朝鮮半島に進撃したことは、広開土王陵碑(好太王碑)に明らかである。また421年に中国南朝に遣使上表した倭王讃(『宋書倭国伝』)は応神天皇に比定される。応神の実名、誉田別(ホンダワケ)の誉を中国風に讃と自称して入貢したと推測され、三韓征討の神功皇后の胎中にあった応神という関係(日本側文献)とも矛盾しない。倭王武はもちろん雄略天皇であろう。雄略の実名幼武(ワカタケル)を刻銘した鉄剣は辛亥(472)年製とあるから、5世紀後半の日本の王権の版図は九州から東国武蔵に及んでいたことになる。
 以上のように2~6世紀の大陸側文献と日本側文献との対応によって、天皇(大王、オオキミ)家の成立と発展の過程が裏付けられ、その歴史は1800年に及ぶことになる。東西の青銅器君主国は、ローマと秦漢の帝国に吸収併合されたが、日本だけが特殊な環境もあって奇蹟的に生き伸びて、今日に至ったといえよう。


<不執政王の誕生>
 7世紀後半の壬申の乱以降、天武・持統朝を経て天皇を頂点とする専制王権が成立した。しかし“奈良朝諸叛乱”と呼ばれるように、長屋王の変を初め、皇族を担いでの貴族の反乱が続出し、天武系の皇族はほとんど根絶やしにされ、称徳女帝崩後は天智系から光仁天皇が擁立された。次の桓武天皇即位に当たって(781年)神器動座により権力の空白を避ける“践祚”の制が始まり、さらに次の嵯峨天皇の代に810年薬子の変が起こり、敗者出家制が成立した。皇族は反乱後も出家すれば赦され、しかも死刑制度も以後350年間廃絶された。どちらも皇位継承にさいしての安定装置が施されたのである。
 さて、陸奥出羽按察使(あぜち)等地方官を歴任した藤原緒嗣は薬子の変後京都に戻って重臣となり、嵯峨天皇の治世晩年から淳和・仁明両帝の時代にかけて政務をとった。その執政ぶりは、「政術に暁達し王室に臥治す、国の利害知りて奏せざるなし」(『続日本後記』)と正史において激賞された。この時期(9世紀前半)いわゆる象徴天皇制が始まったといえ、淳和天皇辺りが不執政王の嚆矢であろう。次いで858年に清和天皇が満8歳で即位した(幼帝の初め)。天皇はもはや子どもでも務まる地位となり、時間と空間の抽象的支配者と位置付けられるに至った。清和幼帝を太政大臣として後見したのが藤原良房であり、のち良房の地位は“摂政”と称され、この家が執政家として固定化した。摂政経験者は天皇が成人してからも前官礼遇として“関白”の官を与えられ天皇を補佐した。かくて西欧よりも800年早く、“君臨すれども統治せず”の天皇の地位が確定した。
 王権の代行としての摂政・王権の補佐としての関白という二大執政職が成立したあとも、10世紀中には、大臣不在の際に“内覧”(准関白)、陣座(じんのざ、公家会議)の座長役である“一上”(いちのかみ、筆頭大臣)、天皇の病中に置かれる“准摂政”が成立し、摂関と併せて執政五職が出揃った。天皇が如何なる状況にあろうとも、対応可能な執政官が制度化されたことで、ここに象徴天皇制が事実上スタートしたと言えよう。しかし、如上の制度化と前後して、①寺社の強訴の猖獗(しょうけつ)、②武家の抬頭という二つの社会変動が顕著となり、摂関制は200年ばかりで行き詰った。その結果、太上天皇(天皇経験者)が執政するという“院政”が始まり、1156年の保元の乱以降、武家政権の時代となるが、天皇が執政五職に支えられて最高権威として続くという国政は依然として存続した。かくて保元の乱後、権力は武家の首長(将軍)が、権威は天皇が担うという体制が幕末まで約700年間持続し、日本独自の伝統として維持されたのである。