会員コラム(2)

日本よ、何処へ 第1回

登利昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年05月06日

 新年度を一つの機会に、拙文ながら文章を書こうと思い立ったのは次の理由からだ。それは長い我が国の歴史を俯瞰するに、現下の内外情勢は日本国そのものが亡国・滅亡の淵に立っているのではとの危機感を強く肌で感じるからである。元来、文章を書くのは苦手で、読みにくい箇所や、あるいは疑問や誤った認識を述べることは多々あるのではと考えるので、その際は厳しい批評をいただければ幸いである。何の知恵も力もない一市井人の祈りに近い願いを込めた文を読んでいただければこれ以上の幸せはない。

 先の大戦から78年の歳月が過ぎた。これは日本人の平均寿命よりは少し短いが、ほぼ等しい年数と言っても良いだろう。先の大戦も明治維新からちょうど78年で終戦になった。つまり、戦前と戦後は同じ年数が流れたのだ。明治からの78年は、戦いの連続であったと言っていいだろう。「日清」に「日露」、「第一次」、「日中戦争」に、「大東亜戦争」とほぼ「戦争の世紀」とも言えるのではないか。最終的に亡国・滅亡の淵に立って「敗戦」で終戦となり、GHQによる7年の占領支配を経て、それから同じ歳月78年が戦後の歳月だ。この歳月で我が国は一体どうなったか。国民にとって明るい将来に向かっての歳月となったといえるのだろうか。政治は、経済は、安全保障は、社会は、教育は、国土は、価値観は、国家観は、国民の価値観・人生観などなど、明るいベクトルになっているのか。おそらく、日本の将来は明るい、希望に満ちているなどと思っている人はまずいないだろうと思うが。

 

 残念ながら近年ますます、目を覆いたくなるほどの惨状になっているのが現実ではないか。日々ニュース報道で目にする暗い内容は目を、耳を疑いたくなるほどで、このままいけば遠くない将来に「亡国・滅亡」の日を迎えるのではないかと危惧する。そう言えば、いつ頃だったかかなり前になるが、アジアの某国の首相だったか誰かが、「過去に日本という国があった」という日が遠からず来ると言ったとか言わなかったとか、ちょっとした物議を醸したと記憶している。この時の発言の狙いは「軍事的敗北」を示唆していたようだが。いずれにしても、こんなことを言われてきっちりと抗議するどころかヘラヘラ笑っている日本の政治家を見て、日本在住の米国出身の親日家がこの国の将来は暗いと諫言していたのを憶えている。

 明治からの「78年」は「戦って敗れた日本」であったが、終戦からの「78年」は「戦わずして敗れた日本」になりつつあるのではないか。なぜなら、内部崩壊ともいえる惨状が多くの分野で惹起しているのではないか。つまり、勝手に一人で転んで国という体を痛めているようにも見える。いやそれ以上に国民の意識構造が、価値観が劇的に変質しているのではないか。「日本病」という言葉があるのかないのか寡聞にして知らないが、この日本人の精神的構造が、悪くなる一方のように思えるが、どうだろう。換言すれば、日本人が劣化しているように感じる。

 日本人の意識構造が劇的に変質しているとは何か。それはあまりにも個人の権利や利益を主張して、「社会全体の利益」を省みなくなっているのではないか。いや、国民に限らず、その国民の運命に直結する政治担当者である政治家が、私腹を肥すことに専念し、国民には重い税負担を課し、自分たちは脱税もどきのことをしてもお咎めなしでは救いようがない。と言ってもこのような政治家を選んでいるのは国民である。このようなことを言えば、すぐ様、お前は戦前の「全体主義」・「軍国主義」を賛美しているのかと猛烈な批判を浴びることになるのだろうか?しかし、よくよく冷静に考えなければならないことは、「国」あっての個人ではないのか?憲法にあるように、個人の自由・利益・権利は保障されるべきであるが、それも程度問題のように思える。個人の自由や権利や利益の主張は暗黙に国家の存在を前提としている。その前提となっている国家の」存立が今や危機に瀕しているように思うのは私だけではないように思うのだが。

 つまり、私が強調したいことは、「国」は保証しろ、責任をとれと裁判でよく争われるのを耳にするが、その国がなくなったら一体誰が保証するというのか。まさかどこかよその国が日本人を保証することはあり得ないだろうに。また、憲法は個人の自由・権利・利益を無限に永遠に保証しているのかどうかということだ。私が感じることは、社会が国が由々しき事態に陥ってるのに、知らぬ顔の半兵衛を決め込み、頬被りをしていていいのか、ということだ。この社会の状態を苦々しく、また疑問に感じている国民は多いのではないかと思う。つまり、サイレントマジョリティーはぼちぼち立ち上がらないと亡国の悪夢を見ることになるのではとも思う。

 

 幸いなことに我が国は終戦から78年間、大きな戦争や紛争に巻き込まれることなく「平和」を享受してきた。実に幸運が続いたのだ。あまりにも長く「平和」が続いたので「平和」が当たり前になって、よく言われるように「平和ボケ」病に陥って感覚が麻痺しているのかもしれない。日本人は昔から「水や空気は只」と思ってきたといわれるが、そうでない(只でない)ことは近年の異常気象や様々なインフラの故障などで、実に復旧・維持に莫大な費用がかかることがわかってきた。と同じように、平和を維持するためには不断の点検と努力が必要なのだと思う。何もせずに向こうから平和がやって来るならこんな楽なことはない。お題目を唱えるだけで平和が実現できるなら苦労は必要ない。「平和」は誰かから与えられるものでも更にない。これまであまりにも「平和」が長く続き過ぎたので「平和」に酔っているのかも。なんであれ、あまりにすぎることは良くないのか。諺に「過ぎたることはなお及ばざる如し」と。

 「平和憲法」があるから日本は戦争に巻き込まれることなく、平和を維持できているなどと、どこかの護憲政党は念仏のように唱えていたが、しかし、どこかの国による拉致事件が起こり、未だに解決の糸口さえ見出せていないではないか。「平和憲法」があるにもかかわらず。この事態を護憲政党はどう説明するのか。それどころか、その拉致事件をおこした国は我が国の領海近くにミサイルをしばしばぶっ放しているではないか。一体、何の目的があるのか?意味するところは明瞭だろう。こんな悲劇が起きているにもかかわらず、解決に命懸けで取り組む政治家が現れないのはどういうことか?「平和憲法」があるから紛争や戦争に巻き込まれないなんて今でも本気で考えているのか。「平和ボケ」もここに極まれりか。安全保障については、またの機会に掘り下げて考えてみるつもりだ。

 上に挙げた国の他にも、我が国の存立にとって由々しき事態を招いている国もあるのではないか。その国の〇〇局の船舶はしょっちゅう日本の領海を犯しているのではないか。この国とは歴史的にも長い付き合いがあるし、文化の借財も大きいことは特筆しなければならないが、かといって手を拱いていい性質のものでは決してない。この国の船舶による領海侵犯に、我が国の海上保安庁の巡視艇乗組員は、日夜危険で過酷な任務を遂行しているのではないか?〇〇局といいながら本当の姿は、本格的に軍事訓練を受けた者が乗組員とみていいのでは。

 どこかの国の護憲政党は「平和」を長年唱え続けてきたわけだから、「拉致事件」を「平和裡に」解決してはどうか?きっと、平和を唱えてきたので「平和裡に」解決する「術」をご存知なのではないか?我が国の領海をしばしば侵犯している国を訪問して「平和」を提案したらどうか?我が国の政権与党議員の裏金問題を追及するのもいいが、上の行動をとったら国民からの喝采は間違いないのでは?(我が国の政権与党については、また、別稿で述べるつもり)

 また、先の大戦の終戦時、我が国との中立条約を破棄して、満州に攻め込み、そのどさくさ紛れの最中、北方四島を奪って、未だに返還交渉にも応じず、我が国の領空近くに爆撃機を飛行させて威嚇している国があるが、「平和」を唱えている議員は、この国の独裁者に「平和」の尊さを提案したら如何か?あっそうそう、この国の独裁者は、2年以上も前から隣国に軍事侵攻しているが、一向に終戦の気配がない。2年前の軍事侵攻以来、双方の死傷者は一説によれば30万人を超えるようだ。双方にとって地獄のような状態に終止符を打つべく、今こそ「平和」を訴えに訪問したらどうか?ああ、それからこの国の前身の国は先の大戦の終戦時、我が国の将兵を国際法違反を犯して抑留し強制労働に駆り立てた件については厳しく追及してもらいたいがいかがか。そのような動きはさっぱりないのはどういうことか理解に苦しむ。というより、単なるポーズか?とにかく日本においては、弾圧されることなく政権与党を批判しておけば、一定数の批判票は得られるからか。甘えも矛盾もここに極まれりか。

 これら、拉致事件の国・領海侵犯をしばしば起こして我が国との軋轢を増大させている国(この国は我が国のみならず、他の国とも領海問題を引き起こしていて、国連の常任理事国にもかかわらず国連による国際裁判の判決書を「単なる紙切れ」と言って憚らない)・隣国に軍事侵攻している国も国連の常任理事国であるにもかかわらず国連の全体会議の批判など何処吹く風。これら3国はいずれも我が国の隣国なのだが。これらの3国は、国際的な批判もどこ吹く風、蛙の面にションベンだ。いやはや、我が国の安全保障は風前の灯火か。

 

 さすがに、良識ある国民の多くは危機感を持つようになったと思えるが、実はこのような安全保障環境であるにもかかわらず、よりによって政権与党の中に唖然・呆然とするような発言をする議員がいるとはどういうことか?ニュース報道に接して耳を疑った国民は多いことと思う。仮に、この議員をK議員としよう。この議員が主催しているのかどうか詳細は知らないが、どうも再生エネルギーなるものを審議する委員会(タスクフォース)に、経歴の定かでない女性を推薦して、その女性が配布した資料の中に、我が国の領海侵犯をしている国の電力会社の「ロゴ」の透かしが入っていたとか。これは悪夢か?こんな案件をこの政権与党の総裁であり首相である人物はどう考えるのか?不思議なことに、政権与党の議員連中は行動を起こそうとしない。どう思ってるか存じ上げないが、敢えて黙りを決め込んでいるのか?

 さらにこの政権与党の総裁・首相は先日、国賓待遇で米国を訪問して、有り得えない大失敗をやらかした。米国大統領との会談後にそれはおこった。会談後の共同記者会見で事もあろうに「同盟国の中国」と発言したのだ。直ぐに訂正したものの後の祭り。昔であれば切腹ものではないか。常日頃、本音で思っていることが口に出たということでなければいいのだが。いやはや。

 この政権与党については、次回の稿で私が思っていることを忖度なく書いてみたい。その前にちょっと述べると、この政党の耐用年数・金属疲労はもう修繕のできない限界状態になっているのでは。もうとっくに歴史的使命は終わってしまっているのではと考える。いつまでもこの政党に政権を与けていたら、日本は終わってしまうのでは。この政党は戦後の1955年に2つの政党が1つになって誕生した。所謂(いわゆる)保守合同であり、野党も同様に合併して1955年体制が始まった。以来今日まで一時期を除くと、何度かの紆余曲折はあったが基本的にこの政党が政権を担ってきたことは国民がよく知るところである。

 企業であれ政党であれその他団体であれ、組織は誕生からの歴史が長くなれば必然的に、様々な問題を抱えて行き詰まる。人間個人で言えば加齢とともに心身に異常が起こり、医者にかかり処方箋をもらって投薬治療や場合によっては入院手術ということになる。でも、人間個人の寿命には限界があっていつの日か生命は尽きる。組織や団体が人間個人と異なるのは、常に組織改革・意識改革ができることだ。これら改革を時代の・社会の変遷とともに怠りなくすすめれば存続は可能となる。次代を担う人に上手にバトンタッチをタイミングよくすることも必須条件となる。でも、最重要事は改革よりももっと大事なことがある。この点について次稿で掘り下げて述べてみたい。

 ところで、平成が終わり令和になって6年目も早や新緑の季節となった。草木は一斉に青々と茂り生命力を感じさせてくれる。その生命力にあやかりたいところだが、我が国の現状では無理な相談だ。というのも、その自然が厳しい顔を見せているのだ。そう自然災害が次々と襲っているのが現実だ。令和6年が明けたその日、つまり元日に能登地方を震度7の巨大地震が襲ったのだ。正月そうそうこのような大きな災害は長い日本の歴史でも経験の無いことではないか。多くの石川県民が被災、本格的な復旧・復興は緒についたばかり。元通りの生活が1日も早く来ることをお祈りしたい。因みに、能登半島地震で被災された県民を慰問するため、天皇皇后両陛下は一度ならず二度も足を運ばれたことをつけ加えておく。

 

 明治の物理学者で随筆家の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやって来る」といったが、近年、その格言は当てはまりそうにない。特に、1955年の阪神・淡路大震災以降はまったくその感を強くする。阪神・淡路(震度7)を含めそれ以降の約29年間で、震度7以上の大きな地震は7回以上発生している。2004年に新潟中越、2011年の東日本、2016年熊本(震度7が2回)、2018年北海道胆振、今回の能登半島。参考までに、震度6が2回(2018年大阪北部、2024年4月17日豊後水道)。因みに東日本大震災の復興事業はまだその途上であり、この先東電の廃炉関連作業など気の遠くなるような問題が待っている。このように羅列すると阪神・淡路から日本の大地が大きく「ぐらぐら」揺れているのがわかる。大地だけではない。毎夏、日本各地で大雨による水害が頻発しているのだ。つまり、上(空)から下(大地)から自然界がこれでもか、これでもかと国民に迫っているようにも感じるが、これも杞憂か

 安倍政権時、ある高名な大学教授(内閣官房参与・国家ビジョン研究会メンバー)は、「国土の強靭化」を強く叫ばれていたことを記憶しているが、国民の努力や人知をあざ笑うかのような圧倒的に巨大な自然界の力を前に為す術もなく立ち尽くす以外にないのか。否、どのようなことがあっても克服していかねばならないと考える。私たちの先人も災害多きこの国土の中で「知恵」を絞り血の滲む努力をして歴史を刻んできたのである。ある時は優しく、ある時は厳しく、人間に迫ってきたからこそ人間は精神的に鍛えられたのかも知れない。つまり、「精神の強靭化」である。もちろん、自然は災害を齎(もたら)すだけではない。災害以上に途轍もなく大きな恵みを人に与えるのである。この恵みがあるからこその人間を始めとする生命体は生命を持続し子孫を残してきたのである。厳しく迫る「自然」と、優しく包み込むような慈愛に満ちた「自然」と、まるで正反対の表情を示す「自然」、一体どちらが本当の「自然」なのや。

 科学は、特に地球物理学は地球世界の構造やその動きを研究対象にしているようだが、まだまだ真の自然界を究明しているとは言えない。地震の構造や大気の循環など多様な表情を示すこの地球の構造は謎の領域も多くあるのだろう。つまり、惑星地球の真のメカニズムやリズムを解明していないということだ。例えば、地球の地下構造や大陸プレートの動きを真に解明できたら、地震予知も正確にできるようになろうが、その地震の予知さえできていないのが実情だ。地震予知がせめて天気予報や台風の接近、風速、上陸地点なみに予測可能になれば人的被害も物的被害も格段に少なくなるだろうに。これは無理な願望か。でもいつかできるようになるだろうと信ずる。いや信じたい。科学は不可能と思われたことをこれまでも実現してきたのだから、その可能性はあるはずだ。

 

 先述したことであるが、地球は実に様々な表情を持つ。常に恵み多き優しい姿を私たちに見せてくれればいいがそうはならない。近年は厳しい顔を人類全体に見せることのほうがずっと多いように思える。先日の新聞記事を読んで驚いたことの一つは、我が国に限ったことだが、今年に入って震度5以上の地震は20回発生しているらしい。この回数は異常に多い。この多さは何を物語るのか。次回は、この点について私なりの持論をそれを中心に述べることにしてこの稿を終えることにしたい。少し前書きが長くなったことをお詫びして筆を擱(お)く。