【憲法改正議論の本質を問う】

2019.1.15

常務理事 野口哲英

 今日、我国を取り巻く政治・経済・安全保障等の環境は様々な混乱の渦の中にある。そういう中で我が国は問題の先送りをする決められない国となっている。その大きな原因は国の背骨となる最も重要な憲法に行き着く。刻々と変わる世界情勢の中で、ぬるま湯につかり変化を嫌う国民性に加え、マスコミは大衆におもねり、政治家は票欲しさに作られた世論というポピュリズムに迎合するといった状況にある。そもそも憲法の改正は、我々国民が、我が国が誇る伝統文化の価値を自覚し、世界に貢献できる能力を有する尊い日本を守る気概があるかにかかっていると言えよう。
 さて、憲法とは一般的には権力者が国を統括するための規範であり、且つ権力者の横暴を縛るためにもある。我国の憲法の始まりは604年聖徳太子による十七条憲法(和を以って尊しとなす、衆議を重んじ役人の行動を規制する)に始まり、その後、徳川家康による武家諸法度(大名や武士達の権限の規定)を経て明治天皇の五箇条の御誓文(万機公論に決すべし。全国民の自己実現を大切にする)から大日本国憲法に引き継がれた。しかし、何れも為政者達による上からの目線で作られている。しかし、戦後の日本国憲法では形は主権在民で国民の権利が先に来ており、義務がその後に続く内容となっており、そのために以下の3つの大きな課題が生じている。
(1) 米国を中心とした占領軍による押しつけ憲法
 現行の日本国憲法は国会で承認されて日本国民がこれを作ったという体にはなっているが、しかし実質的にはGHQの作った草案を受け入れて作られたものであり、事実上は占領軍によって押し付けられた憲法と言ってよい。そしてGHQの意図は日本が二度と戦勝国に歯向かうことのないように、我が国の優れた伝統文化・教育を否定し、3S政策(スポーツ、スクリーン(映画)、セックス)を広め日本人の心を骨抜きにして、以後我が国の政治、経済、軍事力全てを米国に従属させる巧妙なシステムを作り上げた。
(2)国民の権利と義務
 永らく為政者達に従ってきた社会が民主主義を無批判に取り入れたため、国民主権という義務を忘れた権利主張が跋扈(ばっこ)するようになってしまった。その根底は英語のRIGHT(義務を伴う権利=道理)を単に権利と訳したことにある。例えば11条:基本的人権、12条:自由と権利の保障、13条:個人の尊重、15条:生存権と国の社会的使命、第26条:教育を受ける権利、第29条:財産権等々である。義務教育でも不登校、給食費を払わない。働けるのに働かない、生活保護者の増加、都市計画に必要な道路や成田空港建設反対者による数人の抵抗運動で莫大な国家の損失等々、国民の権利意識の肥大化は無償でもらえるものは何でも欲しがる「いやしい」「さもしい」根性の原因となっている。権利と義務はコインの表と裏、むしろ国民であるからには我々はまず、義務を果たした上で権利が生じる。例えば、企業の従業員が義務を果たさずに権利主張すれば企業がつぶれると同様に、国もつぶれることになる。
(3)国の安全保障が危うい
 現憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、今日、このような“平和を愛する諸国民の公正を信頼”するという性善説は通用せず、隙あらば他国に圧力をかけて自国の利益を追求する国が多いのが常である。特に近年、中国や朝鮮(万一、韓国と統一したあかつきには)の核保有国を隣人に持ち、万が一問題紛争が発生して、外交の努力を越えた場合、米国の庇護に頼ってもいざ核の脅しをしかけられた場合、米国が自国の安全への危険を冒しても核で対応するとは思えない。核に代わる専守防衛手法については別の機会に述べたいが、通常の武力による圧力に対して第9条:戦力の不所持、交戦権の否認と第25条:国民の生存権とは相矛盾する文面であり、いざ敵と対戦に遭遇した場合、自衛隊員はどうするのであろうか。今日自衛隊員の応募が漸減しているのはあながち人手不足のせいばかりではないであろう。戦力を持つ戦える軍隊としての自衛隊とするのは当然であり、マスコミやジャーナリズムの国民世論操作や選挙の票欲しさにポピュリズムになびく為政者達は我国存亡の危機に対して、実際に戦争が起きる場合は想定外と言って逃げる。

 以上の3つの大きな課題を踏まえ、政治家はこの混沌とした先の見えない時代に勇気と英知を絞り、為政者以外の社会のリーダー達に声を大にしてこの危機を訴え、国を挙げてこの重大な憲法問題に対応してゆかねばならない。