【地政学の基本講座】  

2019.9.30.

国際外交・安全保障問題分科会委員 鍛冶俊樹(軍事ジャーナリスト)

1 地政学の法則
(1)大陸国家と海洋国家
地政学でもっとも重要な区分は、大陸国家と海洋国家である。大陸国家とは広大な陸地に広がった国を指す。長大な陸上の国境線で区切られているのが特徴で、その国境線を守らなければないから、莫大な陸上兵力を必要とする。陸上兵力とは陸軍とか治安部隊とか国境警備隊など。また現代では空軍や航空警備隊などの航空部隊も不可欠だ。
一方、海洋国家とは海に囲まれている国を指す。日本や英国などの島国は海洋国家だが、島国でなくても海に面していて、海に依存している度合いが大きければ海洋国家といえる。陸上の国境線が余りないので、陸上兵力は少なくてすむが、その代わり海洋の安全を確保するために、巨大な海洋戦力を必要とする。海洋戦力とは海軍や海上警察、さらには、海上航空部隊などである。

(2)地政学の第1法則
地政学の法則の第1は、「大陸国家と海洋国家を長期間、兼ねることはできない」。理由は、大陸国家は莫大な陸上兵力を維持しなければならず、海洋国家は巨大な海洋戦力を必要とするから、大陸国家と海洋国家を兼ねると、国防の負担が大きくなり過ぎて財政破綻してしまうからである。

(3)半島の法則
ここで読者は「大陸国家と海洋国家を兼ねるなんて、そんなことがありうるだろうか?」と不思議に思うかも知れない。基本的には領域が違うので両者を兼ねることはないのだが、大陸国家が海洋進出をしたり、逆に海洋国家が大陸進出をしたりする場合がありうる。
その場合、半島がしばしば通り道になる。また半島に国家ができた場合、大陸側に進出すれば大陸国家になるし、海洋に進出すれば海洋国家になる訳である。

(4)内海の法則
ヨーロッパとアフリカに囲まれた海域を「地中海」と呼ぶが、地中海とは本来、陸地に囲まれた海という意味である。古代、ローマ帝国はイタリア半島の一都市国家に過ぎなかったが、地中海に進出して海洋国家となり、地中海沿岸をすべて従属させて地中海をローマ帝国の内海にして大陸国家に転換し長く繁栄を続けた。
海洋国家と大陸国家を長期間兼ねることは出来ないが、ある海域を内海にすることによって海洋国家的特徴をもった大陸国家を実現する事は可能なのである。

2 世界史と地政学
(1)アテネとスパルタ
紀元前5世紀ごろの古代ギリシアは、都市国家の集合体だった。その中で、指導的な役割を果たしていたのがアテネとスパルタであった。アテネは海洋国家で、貿易の拠点として栄えており一方、スパルタは大陸国家で農業が盛んで強い陸軍を持っていたのである。
本来、大陸国家と海洋国家は貿易を通じて交流して相互に利益を得るから、争う必要はない筈だが、アテネとスパルタはギリシアの主導権を巡って対立を始め、遂には戦争になってしまった。
アテネは強い海軍を持っていたが、海軍だけでは大陸国家スパルタを占領できない。スパルタは強い陸軍を持っていたが、陸軍だけでは海洋国家アテネをなかなか潰せない。ギリシア中がアテネ側とスパルタ側に分かれて27年も戦争が続いたのである。
当初はアテネ側が有利に戦いを進めたが、伝染病が蔓延したり、陸戦の被害が拡大したりして次第に戦線が膠着したので、アテネとスパルタの間で、いったん講和が成立した。しかし、それぞれの同盟国は戦争を継続していたため、結局、両国も戦争を再開するに至る。
その後もスパルタはアテネに講和を申し入れたが、アテネの富裕な市民は平和を望んだものの、貧困な市民は富裕層への恨みから戦争の継続を望んだため平和は実現できなかった。
陸軍国であったスパルタも戦争当初から海軍の建設に乗り出していたが、苦しい財政の中でようやく大海軍を建設し遂にアテネ海軍を打ち破った(BC405)。海軍力を失ったアテネはスパルタ陸軍の侵攻を止めることができなくなり、占領されて戦争は終わりを告げた。
スパルタはギリシアの主導権を握ったが、大陸軍と大海軍の双方を維持することができず、経済破綻をして結局、主導権を維持できなかった。

(2)モンゴル帝国
13世紀の世界史地図を見るとユーラシア大陸の大半を征圧したモンゴル帝国がはっきりと描かれている。東は中国、朝鮮半島まで、西は東ヨーロッパまで、南北は今のインドや今のロシアの一部が含まれている。
ユーラシア大陸の歴史は大帝国の興亡の歴史だが、これほどの大帝国は後にも先にも例がない。モンゴル帝国の支配面積は約3300万㎢で世界史上第2位。
第1位は次に触れる大英帝国で、3500万㎢だが、大英帝国は世界各地にまたがった帝国だったから、ユーラシア大陸での1位はやはりモンゴル帝国であろう。
ちなみに第3位は1991年に崩壊したソ連で約2200万㎢だった。
モンゴル帝国の創始者はジンギスカン(チンギス・ハーン)。従来の騎馬戦法を一新して情報通信と機動力を生かした騎馬戦略を展開、わずか20数年でアジア大陸の半分を征服した。
ジンギスカンの死後も優れた後継者たちに恵まれ、拡大を続けて13世紀末には、こうした大帝国が出来上がったのだ。それまで分裂していたアジア大陸の大半が統一されて平和になったので、人、物、金、情報の移動が一気に加速された。グローバリズムの元祖だとも言えよう。
マルコ・ポーロは、モンゴル帝国を旅行してヨーロッパに戻って東方見聞録を書いたので、それまでよく分からなかったアジアの状況がヨーロッパでも知られるようになった。
また今のイランやパキスタン、アフガニスタンなどのイスラム教圏が編入されたので、イスラム教がモンゴル帝国の各地に広がって行ったのである。
さて、このように見てくるとモンゴル帝国は紛れもなく大陸国家だが、朝鮮半島を服属させると、その先は海だから、海洋進出を始めることになる。そして最初の進出先が朝鮮半島の目と鼻の先すなわち日本だった。いわゆる元寇だ。
元はモンゴル帝国の中国における王朝名。当時、元は今の北京を首都として中国北部を支配していた。中国の南部には南宋があり、海に面した海洋国家だった。日本とも交流をしていたが、元は南宋を大陸側から攻めて滅ぼしたのである。
日本に海路で攻めて来たが、日本がこれを撃退したので、南宋のあった地域をあらたな海洋進出の拠点として海洋国家として道を模索し始めた。マルコ・ポーロは中国に来たときは陸路だったが、帰りは海路でインド洋沿岸を通って帰国している。
モンゴル帝国の最盛期には陸路と海路が完備されていた訳だ。これは、現在、中国が推進している一帯一路政策の原型とも言えよう。
しかし、モンゴル帝国はあまりに拡大し過ぎた。大陸国家と海洋国家を兼ねた為に結局、約130年という短命な帝国で終わってしまったのである。

(3)帝国主義
7世紀にアラビア半島でイスラム教国家であるサラセン帝国が成立すると、あっという間に中近東を征圧し、北アフリカの地中海沿岸を西に進んでジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入した。
サラセン帝国も大陸国家と海洋国家を兼ねたから、統一を維持できなくなり無数のイスラム教国家に分裂したが、イベリア半島は700年間、イスラム教国家の支配下におかれたのだ。
イベリア半島はヨーロッパの一部であり、もともとキリスト教圏だったから、イスラム教の支配下から取り戻そうという動きがあり、15世紀にはイスラム教勢力を追い払ってスペインとポルトガルが成立した訳である。
二つの半島国家はともに、相争うように海洋進出を始め、中南米を始め世界中に植民地を造った。しかし中南米は大陸であるから、そこを支配する事は海洋国家でありながら大陸国家にならざるを得なくなった。
結局、英国などの後発の海洋国家からの攻撃により衰退し、最終的に植民地は独立してしまったのである。
ポルトガルやスペインに続き、植民地獲得競争に乗り出したのがオランダ、英国、フランスである。
オランダは江戸時代には長崎の出島に拠点を持ち、今のニューヨークやシンガポールももともとはオランダの拠点だった。つまり海洋国家として大帝国を築いたのだ。しかしオランダ本国は正面に英国、背後にフランスが控えており、挟み撃ちにされたらひとたまりもない。そこで英国と同盟を結び、最終的には大英帝国の覇権下に入る事になる。
フランスは17世紀にはヨーロッパの中央に位置する大陸国家だった。従って海洋進出はしたものの海軍が脆弱で、結局、英国に敗れた。
植民地獲得競争の勝利者は英国である。英国は支配面積3500万㎢、世界の陸地面積の4分の1を占める大英帝国を築いた。特にインドを植民地にしたことにより、莫大な経済的利益を得るに至った。
しかしインドはアジア大陸の一角を占めており、その防衛には莫大な陸上兵力が必要になった。つまり海洋国家だった筈の英国はいつのまにか大陸国家を兼ねていたのだ。
結局、英国の植民地は20世紀半ばには独立し、大英帝国は解体したのである。

3 日本の歴史を地政学の視点で分析する。
(1)瀬戸内海
2016年4月3日、天皇皇后両陛下は奈良県橿原市にある神武天皇陵で二千六百年式年祭、山陵の儀に臨まれた。初代の天皇である神武天皇が崩御されて二千六百年を祈念する儀式である。
この年数は日本書紀の記述から算定されたのだが、古事記にはこれに類する記述がなく、当時どのように年月日を数えていたのかは、不明である。正確には2000年ぐらい前ではないかという意見もある。
神武天皇は今の宮崎県から船で北上し、瀬戸内海を通って今の奈良県に至って、そこで天皇として即位したと古事記も日本書紀も伝えている。いわゆる神武東征である。
重要なのは、その経路だ。今の宮崎県の日向市あたりから出発し今の大分県宇佐市あたりに拠点を構え、さらに北九州に北上したのち、東に向かい今の広島県府中市あたりに拠点を構えた。さらに東に進んで今の岡山県笠岡市の高島に拠点を定めている。
そして今の東大阪市あたりに上陸しようとして、生駒山の武装勢力に阻止され紀伊半島沿いに南下して熊野に上陸。ここから北上して今の奈良県に至り生駒山の背後を突く形で征圧している。
この複雑な経路について古事記も日本書紀もほぼ一致している。また地理的な状況や現地に伝わる伝承もこれを裏付けているのである。
大和朝廷は神武天皇を始祖として、関西で勢力を拡大してやがて日本全体を統一したが、神武天皇が瀬戸内海沿岸に拠点を造っていったのを見れば成功の秘密は地政学の内海の法則にあった訳だ。
大和朝廷は奈良朝、平安朝と都の位置を変えながら日本の平和と繁栄を維持したが、それは平安朝の終わりとともに潰えた。どうしてか?
平清盛は幼い安徳天皇を擁立し、南宋との貿易を推進するため、神戸に貿易港を造り瀬戸内海に面した福原に都を移した。瀬戸内海を内海として大陸国家となっていた日本を海洋国家に変えようとしたのだ。
しかし、そのため大陸国家的な性格が濃厚な関東方面への防備がおろそかになり、源氏が挙兵して陸路を進撃するのを押さえられなくなった。源氏の指揮官であった源義経は陸戦の名手だったが、瀬戸内海に臨むや、海戦もおそれず、平家を攻め立てて最後は北九州近くの壇ノ浦で当時世界史史上、最大規模の海戦で平家を滅ぼしたのである。当時5歳の安徳天皇も水死、ここに平安朝は終わりを告げた。
神武東征の地図と平家滅亡の地図を見比べれば、朝廷が瀬戸内海を征圧して確立し、瀬戸内海の覇権が奪われることにより衰退した様子が一目瞭然であろう。

(2)朝鮮出兵
日本は元寇を撃退したが、元が南宋を滅ぼして東シナ海や南シナ海を支配したために、海洋進出できなくなってしまった。元が衰えて東シナ海や南シナ海の支配ができなくなると日本は、民間レベルで海洋進出を始めた。これが倭寇である。
豊臣秀吉が日本を統一すると、国家レベルで海洋進出を図った。これが御朱印船である。ところが、ポルトガルやスペインは既に世界規模で海洋進出していたのだ。
今、フィリピンのある地域はスペインの植民地になってしまった。当時の日本は、スペインが持っているような強い軍艦を造れなかった。従って、ここにスペインが海軍の拠点を造ったために海洋進出を断念する他ない状況に追い込まれたと言えよう。
海洋進出を断念した日本は、大陸進出の道を模索した。これが秀吉の朝鮮出兵である。秀吉は朝鮮半島を経由して、大陸に進出しようとしたのである。中国の明朝はこれを阻止すべく朝鮮半島に派兵したため、激戦となって朝鮮出兵は失敗に終わった訳だ。
海洋進出も大陸進出も出来なくなった日本は、もはや海外進出を諦めるしかなくなった。一方、スペインを始めとする西洋諸国は、日本への進出を模索していたから、それを阻止する為に、日本と海外との間の人の移動の自由を禁止したのだった。これが後に鎖国と呼ばれるようになったのである。

(3)戦後の平和と繁栄
米国は、英国の植民地だったが、独立した時は東部13州しかなかった。西に領土を拡大して太平洋に至ったのは19世紀半ばの事である。それから太平洋へ海洋進出を始めたのだ。そしてペリーが軍艦4隻を率いて日本に不利な形での国交を樹立した訳だ。
海軍力の劣る日本は拒否できず、その他の西洋諸国とも同じ条件で国交を結ばされた。国交を対等にするため日本は近代化を進めたのが明治維新。また中国やロシアの海洋進出を食い止めるため日清戦争、日露戦争を戦うことになった。
当時、南アジアと東南アジアはほとんど、英国をはじめとする西洋諸国の植民地だった。米国は19世紀末にスペインと戦争して、フィリピンを獲得していた。第1次世界大戦で戦勝国となった日本は、それまでドイツが領有していた南太平洋の島々を譲り受けた。
すると米国からフィリピンを結ぶ航路と日本と南洋諸島とを結ぶ航路は、交差する事になる。日本は既に近代化された海軍を持っているから、これは米国から見れば米国とフィリピンの連絡を日本がいつでも遮断できることを意味する。
米国にとって、日本は米国の太平洋進出を脅かす存在となり、以後、日米関係は急速に悪化することになったのである。
1930年代になると、米国は自国の経済を保護するために輸入品に高額な関税を課した。英国もこれにならい、大英帝国全体がひとつの経済圏となり、その他の西洋諸国も植民地と経済圏を造った。
日本も独自の経済圏を必要とするようになり、大陸に進出したが、アジアに植民地を持つ欧米諸国は、これを侵略だと非難し、最終的に日本への石油の輸出を停止するに至る。石油がなければ経済は破綻する。日本は当時オランダの植民地だったジャワ島の油田を確保するために欧米との戦争に突入したのだった。
日本は東南アジアに侵攻し、欧米の植民地体制を打破した。しかし米国の海軍の拠点があるハワイの真珠湾を攻撃したものの、米海軍の主力である空母の壊滅はできず、米海軍の巻き返しにより、日本海軍は壊滅し敗戦を迎えた。
日本は武装解除し米軍に占領されたが、東南アジアや南アジアの国々は独立国となって欧米の植民地経済圏から脱出したから、自由な貿易ができるようになり、経済的な繁栄を獲得した。
また米国は日本やフィリピン、オーストラリアを同盟国として、太平洋を米国の事実上の内海にしたから、太平洋は争いの海から、その名の通りの平和の海となったのである。