会員コラム

~会員のエッセイ、ご意見、ご提言など寄稿文~

【慶応元年に日本に来たシュリーマン】

福山 忠彦(常務理事 2020.5.15)

シュリーマン

  8歳になったハインリッヒ・シュリーマンに父親は「子供のための世界の歴史」を与えました。そして、その本は彼の一生を変えました。幼いシュリーマンは本に出てくる古都トロイア(トロイ)に惹かれ、いつかその場所を探し当ててみたいと固く誓ったのです。古代ギリシャの詩人・ホメロスの叙事詩「イーリアス」に描かれたギリシャ先史時代の英雄たちの伝説に心躍らせ、その遺跡を自らの手で発掘することを夢見ていました。後年、彼が発掘したトロイアの遺跡はエーゲ海の北東部(トルコ領)にあります。

エーゲ海は西をギリシャ、そして東をトルコに囲まれた穏やかな内海で南は地中海につながっています。私は遺跡のランドマークとも言うべき「トロイの木馬」を見ようと10年前に行きました。観光客用に再現したものですが、中は数十人の兵士が隠れることの出来る大きさです。階段で2階に上り出窓から外の景色が見えます。トロイア攻撃の奇策としてギリシャ軍は大きな木馬を作り、その中に兵を潜ませ、言葉巧みに木馬をトロイア城門内に入り込ませ、夜になると兵士が出てきてトロイア軍に襲い掛かりギリシャ軍が勝利した話です。

 シュリーマンは歴史書を細かに読み込んだ結果、その場所を割り出し、見事に発掘を成功させました。この土地一帯がエーゲ文明の栄えたところでした。シュリーマンが発掘調査を行った遺跡は9層からなる長い歴史を持つ遺跡でした。彼が発掘したのは第2層でトロイア戦争のかなり前の層です。トロイア戦争遺跡は第7層であり彼は深く掘りすぎていました。このようにここは紀元前3000年からの遺跡が堆積された場所であり、現在も各国からの考古学者の発掘が続いています。公衆浴場の跡、小さいながらも劇場跡、古代人が往来していた両側に縁石がある道などが発掘され歴史のロマンを感じられる場所です。彼はギリシャ古代文明の解明に大きな功績を残しました。その研究はその後に数多く修正されていますが、エーゲ文明発見者としての功績は今でも消えることはありません。

 シュリーマンは北ドイツの貧しいプロテスタントの牧師の子として1822年に生まれました。母親は9歳の時に亡くなり叔父の家に預けられました。貧困から脱するため南米のベネズエラに移住を志しましたが、船が難破しオランダ領の島に流れ着いたことから、オランダの貿易会社で働きました。オランダ時代に彼が成し遂げたことは2つあります。一つは英語をはじめとする外国語の習得です。二つ目は実業家としての才覚を開花させたことです。22歳で6か国語をマスターし、その後、全部で19か国語を習得しました。その中には誰も使わない古代ギリシャ語もあります。勉学の方法は彼自身で編み出したものを計画的に実行したことにあります。彼はもともと語学習得に大きな関心がありました。

・文章を丸ごと覚え、それを声に出して反復練習する。
・意味を理解するために翻訳しないでそのまま覚える。
・常に興味ある対象について作文を書く。
・作文や発音をネイティブに直してもらう。
・直してもらったものを暗唱する。

 最初に学んだのは英語です。大英帝国華やかりし頃なので当然でしょう。次いでフランス語です。彼の処女作「中国と日本」は見事なフランス語で書かれています。彼はオランダのシュレーダー商会で、ロシア相手の藍色の染料インディゴで大成功をおさめ、若干23歳でロシアのサンクトペテルブルグに商社を設立し独立を果たします。さらにゴールドラッシュで沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収めました。1853年に勃発したクリミア戦争では、多くの投資家がしり込みする中、硝石・硫黄・鉛などの戦需品を大量に売りさばき、さらに1861年のアメリカ南北戦争では大量の綿花を買い占め、一躍戦争成金として名を成しました。彼の類いまれな商才はそのほかの取引でも発揮され若くして莫大な富を築き上げました。

 1863年 シュリーマン41歳、の時にこれまでの事業すべての清算を始めます。遺跡発掘という人生の大目標の達成のためにすべての事業から身を引き、考古学に残りの人生を捧げる決心をします。当時、考古学の中心はパリ大学とされており、パリに居を移す計画を立てますが、その前に世界の国々を見ておきたいと考え、地球一周の旅に出かけます。最初にカルタゴの遺跡を自分の目で確かめるために北アフリカのチュニスに向かい、エジプト、インド、中国を通って、日本にやってきます。日本の次はアメリカのサンフランシスコに向かっています。その船中で彼は「清国・日本」という旅日記を流暢なフランス語で書き上げこれが彼の処女作となりました。

 シュリーマンが日本を訪問したのは1865年(慶応元年)6月1日から7月4日までです。上海から蒸気船で3日の旅で霊峰富士の雄大な姿を見ながら江戸湾の横浜港に着きました。「私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」と日本への熱い思い入れを素直に語っています。慶応元年と言えば江戸時代の最後の年号です。二年後に大政奉還を控え、国内は開国派と攘夷派に分裂して抗争を繰り広げていました。外国人に対する襲撃事件も頻発し、外国人の多くは身の危険を感じて江戸を引き払っていたため、江戸では最も安全な麻布善福寺のアメリカ合衆国公使館に滞在します。写真は当時の善福寺です。この寺は日米通商条約締結の際、タウンゼント・ハリスの宿舎となって以来アメリカとの関係が深い所です。また、シュリーマンの日本滞在に協力したのがグラバーです。彼は、元来は武器商人ですが、幕末から明治にかけて日本の近代化に尽力した人物でもあります。毎日、5人の奉行所役人の警護のもと、馬で各地を訪問し詳細な記述と共に自らの印象を書き残しています。

善福寺

 横浜港に着いた時のことです。二人の官吏がにこやかに近づき、中を吟味するから荷物を開けるように指示しました。荷物を解くのは大仕事であり、出来れば免除して貰いたいと思い、二人に手持ちのお金を渡そうとした所、「ワタシは日本男児」と言い、これを拒みました。これが上陸時の最初のエピソードです。

 滞在中の最大の出来事は14代将軍徳川家茂の第2次長州征伐の行列を目撃できたことです。本来は、外国人は見ることが禁じられていましたが、イギリス領事の便宜によって横浜から4マイルのあたりの東海道筋の木立に陣取って見ることが出来ました。この時、間違って行列の手前を横断した農民に怒った下士官が、彼を切り捨てるよう、部下の一人に命じました。部下が命令に従うのをためらうと、激怒した下士官はその部下の脳天を割り、つぎに農民を殺しました。まさにその時、さらに高位の上級士官が現われ、彼は事の次第を確かめるや、この下士官を気が狂っていると決めつけ、銃剣で一突きするよう命じました。この命令はすぐさま実行に移されました。三つの死体は街道に打ち捨てられ、1,700人の行列は気にもとめず、そのまま通過して行きました。翌朝、シュリーマンは切り捨てられた3人の死体を見ることになります。このように緊迫した世情と6月という梅雨時期にも関わらず、江戸庶民の生活を見て歩き、さらには養蚕業が盛んな八王子まで足を延ばしています。いくつか彼の見聞した話を書いてみます。

・日本のお寺の風情と僧侶の親切さと清潔さを大いに気に入ります。
大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾り立てた中国の寺は極めて不潔で、しかも退廃的だったから嫌悪感しか感じなかったが、日本の寺々は簡素な風情であるが、秩序が息づき、手入れの跡も窺われ、聖域を訪れる喜びを覚えた。老僧も小坊主も親切さと清潔さが際立っていて、無礼、尊大、下劣で汚らしい中国の坊主たちとは好対照をなしていると書いています。

・下町の店を見て歩き本の安さと玩具の精巧さに驚きます。
沢山の下駄屋、傘屋、提灯屋,孔孟の聖典を売っている本屋の前を通った。本は安価でどんな貧乏人でも買えるほどである。玩具は仕上げが完璧でありニュルンベルグやパリの玩具製造業者はとても太刀打ちできない。

・カロリーナ米(イタリア米)よりも日本の米の方がおいしい。
パンではなく米が主食であることを知ります。その品質がカロリーナ米(イタリア米)よりも良いと褒め、煮魚や刺身をおかずに食べました。

・浅草寺参拝の後、近くの猿若町の芝居小屋に行きます。
イギリス大使のオールコックが書いた「大君の都」には大阪での観劇の個所があり、江戸では観劇は庶民のもので下品とされ見ることが出来なかったと書かれています。シュリーマンは近辺のすべての小屋を見て回り、特に独楽の曲芸を称賛しています。

・日本の公衆浴場は「なんと清らかな素朴さだろう。」と讃えています。
全裸の数十人の男女が、誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にも触れることなく、衣服を身に着けていないことに何の恥じらいも感じていないと、その清らかな素朴さを高く評価しています。

・遊女の肖像画が本堂の中に飾られているのに驚きます。
浅草のお寺で遊女の像が掲げられ、人々に尊敬されていることに驚きます。花魁の絵姿と仏像が並んで飾られている様子を見てしばらく立ち尽くしてしまいます。「それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた。長い間、娼婦を神格化した絵の前に唖然と立ちすくんだ。」と表現しています。遊女は著名な浮世絵師も描く江戸庶民の文化の一つであることをシュリーマンは大きなカルチュアショックとしてポジティブに受け止めて、滞在中に何度も浅草を訪ねています。

・間違いなく日本は世界で一番衛生的と断言しています。
シューマンの凄いところは、公衆浴場で男女が一緒に入浴しているのを見てヨーロッパとは違う礼儀の考えがあるのだと評価する観察眼を持つ所です。「どんなに貧しい人でも、日に一度は、街の至る所にある公衆浴場に通っているのを見て、ヨーロッパ的観念とは異なっているが、人は自国の習慣に従って生きている限り、間違った行為をしていると感じないものだ。そこでは淫らな意識など生まれようがない。すべてのものが男女混浴を容認しており、恥ずかしいことでも、いけない事でもないのである。ある国の道徳性を他の国のそれと比べてうんぬんすることは極めて難しい。」と型にはめて物事を見ることを戒めています。ロシア籍もアメリカ籍も持ち、19か国語に精通しているシュリーマンの卓見と言えます。お寺に遊女の肖像画が飾られることも、混浴の習慣もあるがままに偏見なくシューマンは受け入れています。

 シュリーマンのトロイアの発掘は世界を驚かす大発見でした。その歴史的価値は覆ることはありませんが、現在の研究では批判的な見解をいくつか見ることが出来ます。
 先ず、「幼少時代からの夢の実現」はサクセスストーリーにあと付けされた作り話であること、次いでトロイアの遺跡を最初に見極めたのはイギリス人外交官であること、そして発掘手法が考古学的に未熟な素人仕事でありその後の学者の作業に困難を与えたことなどが指摘されています。
 そもそもシュリーマンの発掘した場所がトロイアの遺跡の場所かどうか疑わしいという意見もあります。トロイアの遺跡発掘後、シュリーマンはアテネ市内のほぼ中央部にポンペイの壁画を取り入れた内装など美しく豪華で独創的な邸宅を作り、そこを起点としてトロイアの発掘だけでなくミケーネなどのエーゲ文明の発掘を続けました。
 そして、1890年に旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られました。享年68歳でした。彼の邸宅は、現在は貨幣博物館として開放され往時を偲ぶことが出来ます。それ以前の1881年にはトロイアで発掘した黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民になりました。そして彼が発掘した遺跡は1998年に「トロイの考古遺跡」としてユネスコの世界遺産に登録されました。偏見なくあるがままに物事を受け入れ、古代と対話しながら発掘を続けたスーパー国際人でした。<了>

【明治初期に来日した外国人が見た日本人】

福山 忠彦(常務理事 2020.4.16)

  新型コロナウィルス対応で世界中は大変な騒ぎです。中国は国家の強権でねじ伏せました。日本は国民の「理性」と「公徳心」に訴えると同時に、クラスターという表現を使い感染経路を粘り強く追い、ピンポイントで感染者を割り出し、その人たちにPCR検査を行う方式をとりました。非常事態宣言が出されましたが、その内容は諸外国のロックダウンと異なり罰金などの罰則はなく各人の良識に訴えるものです。外出禁止も社会生活の中で守るべき規範として扱われています。他国では違反者に罰則が加えられますが、日本は要請または指示であり、罰則はありません。そしてこのことは多くの日本人に受容されています。

 これは日本が鎖国から開国に至って間もない、日本がまだ「西洋化されていない」日本独自の文明が生きている証左の一つではないかと思い、このことをもっとよく知ろうと思った時に、目にしたものは150年ほど前にやって来た欧米人の書いた文章でした。150名ほどの欧米人が日本人の生活様式や習性のことを書いています。私は当時の「農工商」という庶民の生活について記述したものに焦点を当てて読んでみました。

■著名な欧米人が見た日本の庶民たち
 先ずはアメリカの初代総領事のタウンゼント・ハリスです。彼は下田近郊の漁村を訪れて「小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に付き物の不潔さが少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている。」、「5マイルばかり散歩をした。ここの田園は美しい。出来る限りの場所が全部畑になっていてよく開墾されている。これらの段畑を作る労働はけだし驚くべきものである。幾世代にも渡って営々と築き上げた共同作業に感慨を覚える。」、「人々は楽しく暮らしており、子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えている。」、「一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのだろうかどうか、疑わしくなる。」と日本及び日本人をベタ褒めしています。

 次いで初代イギリス公使を務めたオールコックは彼の名著「大君の都」で熱海滞在を基に「これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む1,400人の住民中、よその土地に移り住んだものは20人といないそうだ。村民たちは自分達の風習に従って幸せな生活を営んでいる。手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。」、「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはいない。」、「人々は健康で働き者で、そして温和である。贅沢を求めずごく僅かなもので生活していて、自己顕示欲に基づく競争が存在していない。」と協調の精神と勤勉な日々を過ごす日本の農民を讃えています。日本との通商条約締結の任を帯びて来日したイタリアの海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨンは「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない。貧困が暗く悲惨な形であらわになることはない。人々は親切で、進んで人を助けている。」と記しています。

 江戸時代に松前藩に幽閉されたロシア軍人のゴロヴニンは「日本人はごく幼い頃から読み書き、法制、国史、地理などを教えられ、大きくなると武術を学ぶ。しかし一番大事なことは幼年時代から忍耐、質素、礼儀を巧みに教え込まれていることである。」と「日本幽囚記」に書いています。横浜―東京間の列車の中から大森貝塚を発見したエドワード・モース博士は「善徳や品性を生まれながらに持っている。恵まれた階級の人ばかりでなく、最も貧しい人も持っている。挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりは生まれながらのものである」、「日本の大工はアメリカの大工より技術的に上である。創意工夫にたけた能力を持っている。」と日本人の思いやりと創意工夫に賛辞を送っています。そのほか明治初期に来日した欧米人は「物乞いする人に対して決してひどい言葉が言われないことは、見ていてよいものです。」、「横浜を外れたみすぼらしい農家が素敵な生垣に囲まれていた。自然と親和する暮らしぶりは見事である。」彼らは異口同音に日本の田舎の人が示した清潔で、礼節を重んじ、子供をかわいがり、そして器用であることを褒めています。

 理解しがたいこととしては男女が全裸になって同じ浴槽に入ること、これについてハリスは「何事にも素晴らしい日本人が混浴という品の悪いことを何故するのか判断に苦しむ。」と嘆いています。また、女性のお歯黒と顔を真っ白に塗る厚化粧、時折見せる「発する言葉と胸の内が異なる」いわゆる本音と建前が異なることを指摘した記述もあります。意外なものとして和食の評判がよくありません、少ない食事量と肉や牛乳が供されない事に不満が沢山あったようです。彼らはいくつもの国をよく知っています。その人たちからこのように数多く褒められているので額面通りに受け止めてよいと思います。

■イギリスの女性探検家イザベラ・バードが見た日本の田舎
 これまでの欧米人の論評は東京、横浜、長崎といういわば開けたところに滞在した人々のものです。驚くことに1878年(明治11年)にイギリス人女性が北日本各地を、日本人通訳一人を従えて旅行しています。西郷隆盛の西南戦争が終わった翌年です。東京を起点として日光、会津若松、新潟、山形、秋田、青森、蝦夷・箱館の大冒険をしています。決して豊かでない日本の地方に住む人たちの生活実態を日記風に書いています。それを分厚い封書にして、行く先々でイギリスに住む彼女の妹あてに送り、それを「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan)として旅の2年後にイギリスで発行しています。序文に「この私の全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった。」と書き、人跡未踏の地の旅日記に自信をのぞかせています。明治初期の日本の地方を知る、しかも欧米人から見た紀行文は地方に住む人々の生活を知る大変興味ある本です。

 イザベラ・バードは1831年(天保2年)にイギリスのヨークシャーで聖職者の家に二人姉妹の長女として生まれました。世界旅行に興味を持ち日本滞在の経験のある幾人かの人から助言を受け日本旅行を実現させました。それは彼女が46歳の時でした。通訳となる20歳の伊藤鶴吉を伴っての旅でした。伊藤は神奈川県三浦郡出身で、海外へ行ったことはありませんでした。英語を学んだ何人かの応募者の中からバードは彼の英語が彼女にとって最も理解できたと言う事で選びました。「身長は150センチ足らず、がに股ながら、均整の取れた頑丈な体躯の持ち主で、顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と、細い眼をしている」と伊藤の外観を書いています。「頭がよく、旅支度は指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力をいかんなく発揮した」と褒めています。また、伊藤は日本への愛国心が強く外国のものは何でも劣ると思っていると少し不満げに付け加えています。伊藤という通訳者なしではバードの旅は成し得なかったかもしれないし、その内容も乏しいものになったと思われます。バードの通訳を無事果たした後、本格的に通訳業をはじめ25歳の時に世界一周をしています。「横浜通訳協志会」の会長を務め「通弁の元勲」と評され享年54歳で亡くなりました。

 バードは1878年(明治11年)6月10日に英国公使館を出発して9月14日の箱館までおよそ100日間をかけて旅しています。帰途は函館から横浜まで船旅でした。彼女の声をいくつか拾ってみます。
「日本の奥地や蝦夷を旅したが、まったく安全でしかも心配もしなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも、無作法な目にも、あわず安全に旅行できる国はないと信じている。」「浮浪者が一人もいないこと、通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、貧相な人々には、それぞれ自分の仕事というものがあることです。」「これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。抱っこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対しても同様に可愛がり、世話を焼きます。」「醜い、みすぼらしい、まずい、わびしい、下劣な衣服、人が良くて親切ながらも、とにかく酷い私の車夫、人々は言葉にならないほど汚くて不潔、神社のお祭りで奏でられる不協和音と耳障りな響きの音楽、これらは苦痛である。」「宿泊設備は蚤や蚊それに臭気を除けば、驚くほど素晴らしく世界中のどの国に行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないでしょう。」
 辛辣な表現も多い旅日記ですが明治初期のまだ不安定な国の、しかも東北地方の農村部は日本の中でも貧しく粗末な食物、悪臭、蚤と蚊の襲撃、裸同然の衣服は、インテリ西洋人の価値観に合致するはずもないですが、それでも子供たちの礼儀や馬子の仕事ぶり、物乞いのいない社会、治安の良さなど観察眼がよく行き届いています。バードはその後も世界各地への旅行を続け、「イギリス王立地理学協会」の女性初の特別会員に迎えられ、ヴィクトリア女王にも謁見しています。1901年のモロッコ旅行の3年後にイギリスのエディンバラで、享年72歳で亡くなりました。

■日本の隅々にいきわたるこの生活特性を守り続けましょう
 バードが旅した時代や地方は未開の土地でしたが、彼女はそこでの人々の礼儀正しさ、心優しさ、勤勉さ、治安の良さ、子供を大切にする暮らしぶりに心から感心しています。バードはこのことに気づく素晴らしい感性を持つ人でした。それにしても日本語が皆目わからない46歳のイギリス女性が、明治初期に日本の田舎を旅行した勇気に頭が下がります。人々の生き方、心情には都会と田舎ではほとんど差がありません。むしろ当時の日本人と今の日本人との方が、差が大きいかもしれません。ハリスが書いたように「私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのだろうかどうか、疑わしくなる。」という記述を思い出します。150年後の今は何もかも素晴らしく世界の先進国ですが、これらはすべて過去の人たちが築き上げてきた賜物です。今、日本は新型コロナウィルスで苦渋の生活をしています。感染源を突き止めてそこからの派生者群をクラスターと呼び、その人たちに検査や治療を行う効率的な方法を取り、成功するかに見えましたが対象数が増え、方向転換を余儀なくされています。緊急事態宣言がなされましたが諸外国に比べて強制力が劣ります。また、国や地方の行政府の対策も人々の機運が盛り上がってからの遅れ気味の対応です。私は人々の自覚や自制心に依存する日本のやり方は古くからの対応方針と似ていると理解しています。高い民力を持つ国です。この精神を生かした日本がいち早く新型コロナウィルスに打ち勝って世界の国々の良い手本になることを願っています。そして来年に延びた東京オリンピック・パラリンピックを迎えたいと思っています。<了>   

 

【東京空襲の記憶

伊賀山欣也(国際外交・安全保障問題分科会委員 2020.02.09)

 夜空に空襲のサイレンが鳴り響いた。
座敷で父母と寝ていた4歳の私は揺り起こされ、母に手を引かれて庭の防空壕に跳び込んだ。
 程なく上空に米軍の新鋭大型爆撃機B29の大編隊が飛来し、それを探照灯の光芒がむなしく追いかけるのが見えた。
 その防空壕は、当時は銀行勤めであった父が日曜日ごとに借家の庭に深さ1メートルほどの穴を掘り戸板や畳をかぶせただけの心細いもので、兄たち二人と合わせた家族5人には狭すぎ、爆弾が一つでも落ちれば吹き飛びそうな代物ながらそこにもぐると安心感があった。しかし、真夜中のサイレン音と大型機の編隊の爆音は幼い私を怖がらせた。

 当時の我家は中央線沿線の吉祥寺近くにあった。幸い家族は無事に終戦を迎えたが、戦時記録を見ると、昭和19年秋以降米軍は東京下町の焼夷弾爆撃に加えて、中央線のレールに沿って飛来して吉祥寺の先の三鷹にあった中島飛行機の工場の爆撃を始めた。この工場は当時の日本の最新型戦闘機のエンジンを製造する重要な軍需工場であったため、米軍から前後10回以上の爆撃を受け、200余名の殉職者と500名を超える負傷者を出したことを知った。

 私の戦争体験は夜中のサイレン音、爆撃機の轟音、探照灯の光、そして小さな防空壕だけにすぎないが、焼夷弾の絨毯爆撃による火の海の中に幼児も含めて多数の同胞がいたのだ。 
 そして、現在の中東動乱の戦火の中で必死に生き延びるシリアやイラクの市民達の様子を紹介するTV報道や映画を観る度に、このささやかな戦時体験が記憶に甦る。 
 今の世においても世界の片隅で絶えざる空襲や砲撃の下で怯える幼児達がいることに想いを致さずにはいられない。<了>