会員コラム

~会員のエッセイ、ご意見、ご提言など寄稿文~

【 地球温暖化阻止は私たち一人ひとりの活動から 】

常務理事 福山 忠彦(2022.4.3)                               
 2020年10月に日本政府は「2050年までにカーボンニュートラルを目標とする」と宣言し、「2030年までに二酸化炭素の排出量を46%削減し、さらに50%の高みを目指すことを中間目標とする」と表明しました。カーボンニュートラルとは私たちの社会活動から出る二酸化炭素の量と森林などによる吸収量が等しくなることを言います。これは国連環境計画と世界気象機関によるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が決めた「パリ協定」に由来します。この宣言に基づき政府は学識経験者、企業、団体と共に活動を推進しています。火力発電所の廃止、風力などの再生エネルギーの推進、はたまた原子力発電の復活か否かが論じられていますが、私たち1億2千万人の生活者の活動へのアプローチはありません。生活者の一人ひとりの行動を変えることを何故訴えないのだろうかと疑問に思っていました。このことに関して、調べて見ると一冊の本に出会いました。それは「ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法」(ポール・ホーケン編著 山と渓谷社 2021年)です。この本の紹介と私見を述べます。

「ドローダウン 地球温暖化を逆転させる100の方法」の構成内容 
 アメリカの環境保護活動家、起業家、作家であるポール・ホーケン氏は一般の人々に何ができるか、そしてそれがどのような影響を与えることが出来るかを探し求めていました。しかし、見つけることが出ませんでした。そこで彼はこれを自分たちの手で行おうと「プロジェクト・ドローダウン」を結成し、100の方策、70名の研究者を22ヵ国から募り、データ収集・研究・シミュレーションを実施し、更にその結果を120名のアドバイザーに再評価してもらいました。2020年から2050年までの30年間にどれくらい効果を上げられるかを見極めた本です。本のタイトルの「ドローダウン」とは大気中の温室効果ガスの濃度がピークに達し、前年比でマイナスに転じる時点のことを言います。温室効果ガスの評価はメタン、亜酸化窒素、フロンも含まれていてそれを二酸化炭素に換算しています。すぐに実行に移せる最も効果的な解決策、それが普及した場合のインパクト、そのための費用を求めました。これらをまとめ2017年に出版しました。この年、この本は米国の環境関連本でベストセラーになり、その後、十数ヶ国で翻訳されました。日本では昨年2021年でした。現在も「プロジェクト・ドローダウン」はデータのアップデートを続けています。シミュレーションは1970年代に世界に衝撃を与えた「成長の限界」で使われたシステムダイナミックスを用いています。これはMIT のデニス・メドウズ教授を中心とするローマクラブが人口、食糧生産、資源、環境などの問題を総合的に検討したもので、100年以内に地球の成長は限界に達するという人類社会への警告書として有名です。要素間の連携を重視し社会構造システムによく用います。「ドローダウン」では結果のみ提示しシミュレーションの詳細は省いています。結論から言えばドローダウン、つまり大気中の温室効果ガスの濃度がピークに達し前年比でマイナスに転じるのは実現性の高いシナリオで2040年代半ばとなっています。

注目解決策を108項目取り上げ各々の削減効果と必要投資を算出
 エネルギー、食、女性と女児、建物と都市、土地利用、輸送、資材の7領域から85項目、今後の注目解決策として23項目、併せて108項目についてそれぞれの削減効果を求めています。効果の大きいベスト5は次の通りです。
1 冷媒(冷却材)のマネジメント
2 陸上風力発電
3 食料廃棄(フードロス)の削減
4 菜食中心の食生活
5 熱帯雨林の保護
私たちが毎日食べている「食事」は第3位にランクされ、食料廃棄を半減すると2050年までの30年間に705憶トンの二酸化炭素を減らす効果があります。これは最も身近で分かりやすい二酸化炭素削減の事例です。
第1位にランクされている冷媒(冷却材)は次のように説明されています。食べ物を冷やしたり、建物や乗り物を涼しく保つ冷媒(冷却材)は成層圏のオゾン層を破壊するCFC(クロロフルオロカーボン)やHCFC(ハイドロクロロフルオロカーボン)が含まれています。これは1987年の「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」に基づき、代替品であるHFC(ハイドロフルオロカーボン)が使われることになり段階的に使用削減されています。ところがこのHCFはオゾン層保護には有効ですが、温室効果は二酸化炭素の数千倍もあります。このため、2016年に世界170か国以上がルワンダのギガリに集まりHFCの段階的削減計画、HFC代替冷媒の採用計画を作成しました。ギガリ協定は2019年に高所得国から着手し、低所得国は2024年から2028年にかけて順次着手します。パリの気候変動協定と異なり、ギガリ協定には法的拘束力があります。科学者はこれにより地球温暖化が0.5度近く抑えられると推定しています。しかし、HFCの廃止は長期間かかります。HFCは廃棄時の処分が最も重要です。慎重に取り除いて保管すれば温暖化の原因にならない別な物質に変換でき再利用が可能です。このように冷媒(冷却材)をギガリ協定に従ったマネジメントをすれば2050年までの30年間に897億トンの二酸化炭素の削減が出来ます。これが効果No.1の方策です。
このように108の項目について二酸化炭素の削減の手段と効果を説明し、各方策の整合性(特に重複計算)をチェックしてまとめた本です。全編を通じて「私たちは地球を守る責任を託された管理人としての役割とお互いの協力」の重要性を述べています。

見つけよう、作ろう、日本にいる生活者として出来ることを
「プロジェクト・ドローダウン」は社会的、生態学的、技術的解決策についてデータの収集、分析、解析、提言をできるだけ生活者目線で行っています。しかし、対象となっているのは地球規模です。私たち日本人の日常行動に必ずしも合致しません。私は行政府や企業で進められているカーボンニュートラル活動にもっと市民が参画しなければ目標達成は難しいと思っています。囲碁の言葉の「着眼大局、着手小局」です。家庭から出るゴミが各家庭で予め分別されるようになり、区役所・市役所のごみ収集が大変効率よく行われるようになりました。これと同様に私たち一人ひとりの気づきと行動変容により脱炭素化運動を活性化する必要があります。プロジェクト・ドローダウンの項目をよく見ると私たちの行動変化で達成されるものもあります。私たちレベルですぐにできそうな項目を本から拾い上げてみました。
・屋上ソーラー
・食料廃棄の削減
・歩いて暮らせる街づくり
・LED照明
・スマートガラス
・増改築の際の建物の改修
・竹の栽培と活用
・代替セメント
・電気自動車やライドシェア
「2030年までに二酸化炭素の排出量を46%削減し、さらに50%の高みを目指すことを中間目標とする」を実現するには一人ひとりに具体的な行動指針を示さなくてはなりません。評論家や環境コンサルタントの方々にも是非加わって頂き日本人用の日本版「地球温暖化を逆転させる100の方法」を早急に作らなくてはなりません。同憂の士とそれを行いたいと思っています。   

                              おわり

横須賀沖の旧軍事基地猿島を訪ねて

常務理事 福山 忠彦(2022.1.28)
 東京湾は東に房総半島、西に三浦半島に抱かれるように存在しています。東京湾と太平洋を結ぶ浦賀水道はその幅6.5キロと短く、互いの半島を見ることが出来ます。三浦半島の一番大きな市は横須賀市で、その沖合1.7キロに猿島があります。三笠桟橋からフェリーで10分です。猿島は東京湾に浮かぶ唯一の自然島です。そして無人島です。更に日本の近代史を知ることが出来る島です。フェリーの出る三笠桟橋には日露戦争の日本海海戦で連合艦隊の旗艦を勤めた「軍艦三笠」があります。連合艦隊司令長官の東郷平八郎が座乗した名高い軍艦です。明治政府が英国に発注し1902年にスエズ運河経由で横須賀に到着し、1905年にロシアのバルチック艦隊相手に戦った軍艦です。今は三笠公園の桟橋で一般公開されています。世界三大記念艦の一つです。他の二つはトラファルガー沖海戦でイギリスのネルソン提督が率いた「ビクトリー」号と米英戦争で勇敢に戦ったアメリカの「コンスティチューション」号です。いずれも自国の独立を守るための重要な海戦において勇敢に戦い歴史的な勝利を収めた軍艦です。

■江戸末期、明治、昭和と三回に分けて軍事基地として存在
 猿島からは縄文時代の土器片や弥生時代の人骨や壺が出土しました。島には猿は一匹もいません。名前の由来に日蓮上人が登場します。日蓮上人が小舟で湾を渡っている時、一面が濃い霧に覆われ行先が全く分からなくなりました。辛うじて一つの小島に着くと、一匹の白猿が現れ安全な場所へ導いたという逸話が猿島の由来です。その後、手助けした漁師がサザエで足を切ったため、日蓮上人はお題目を唱えサザエから角を取ったので、この付近のサザエは角がないそうです。周囲1.6キロ、最も高い所で40メートルの地域住民に愛された島です。
 幕末、外国船がたびたび姿を見せたため、幕府は海上防衛のため、東京湾の入り口の猿島に、全国初のお台場を3か所、15門の大砲を設置し守りを固めました。その6年後の1853年にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来ました。数日間足止めされたペリーは周辺の測量調査を行い、その時の地図に猿島のことをペリーアイランドと記しています。猿島から外国船への発砲記録はありません。


 明治の新政府は1884年(明治17年)猿島に本格的な洋式要塞を作りました。フランスやオランダの技術が取り入られ、特筆すべきは発電所を作ったことです。夜間、東京湾へ侵入しようとする敵軍を見張るためのサーチライトの電源が必要だったからです、外から見破られないように煙突の高さは10メートルと低く抑えました。この発電所は今も稼働し島内の電力を賄っています。猿島要塞は全て岩壁を彫り込んで作りましたので、島の外からは全く見えません。弾薬庫や兵舎は島の中央部に作られ3つのトンネルで連なる構造になっています。この要塞建設に使われたのがフランス式のレンガ積みです。レンガの積み方にはイギリス式とフランス式がありますが、フランス式を採用しました。もう少し時代が下るとほとんどがイギリス式に変わって行きます。このレンガのトンネルは建築史上大変貴重だそうです。砲台にはフランスから輸入したカノン砲が配備されましたが、実戦で使われることはありませんでした。
1941年(昭和16年)、防衛施設として再び猿島の重要性が増したため、鉄筋コンクリート製の円形の砲座が5座作られ、その上に高射砲が配備されました。しかし、8センチ高角砲の射程は7,000メートル、アメリカの飛行機はそれより上空の10,000メートルを飛ぶので届きません。高性能の12.7センチ砲が完成したのは終戦間際の7月でしたが、電源スイッチを入れても動かなかったそうです。戦後、アメリカ軍が上陸したのは1945年8月30日でした。日本軍が隠れているかもしれないと威嚇射撃をした弾痕が随所に見られます。島では8センチ高角砲が4門、12.7センチ高角砲が2基4門見ることが出来ます。

■仮面ライダーの撮影基地、東京湾の展望、夏はレジャーランドとして
戦後は無人島、要塞跡という立地条件を生かし「仮面ライダー」に登場する組織「ゲルショッカー」のアジトとして映画撮影に使われました。緑深い木々の中、レンガ積みの銃痕があるトンネルや砲台跡はそのまま撮影場所になりました。また、標高40メートルの展望台からは八景島、横浜みなとみらい21、横浜ベイブリッジ、東京スカイツリー、そして晴れた日には房総半島も見ることが出来ます。砂浜での海水浴やバーベキュー、岩場での釣り、散策道路では要塞跡や日蓮洞窟を楽しめるレジャーランドに変身しているのが今の猿島です。

■現在に生きる幸せとこれが将来まで続きますように
江戸末期から第二次世界大戦まで首都東京を守り続けた猿島です。軍事基地の島ですが、発砲という戦争行為は一切していません。「守り」とは忍耐と神経を使うものです。江戸末期の武士もその後の軍人さんも本当にご苦労様でした。今は横須賀市が国から無償譲与を受け、「国史跡」の指定を受けて島全体を「猿島公園」と呼んでいます。観光施設、レジャー施設として賑わっています。私たちはその恩恵を十分に享受しています。桟橋から見える雄大な富士山、江戸末期からの100年にわたる軍事基地の歴史、自然が満喫できるリゾートエリアです。東京湾が見渡せる絶景の島です。夜は皆が引き上げる無人島です。猿島は平和の象徴ですが、ふとそれに甘えて良いのかなという気持ちを抱かせます。電力を自給自足する10メートルという低い煙突を持つ発電設備はまだ現役です。何かしゃべって欲しい、何か言いたいことがあるでしょうと思わず問いかけたくなる雰囲気を持っています。平和のシンブルです。私たちはこれをズーッと守り続けていかねばなりません。猿島を離れる時に見た富士山のどっしりしたシルエットは大変印象的でした。                   おわり                    

【百歳の画家 グランマ・モーゼス】


常務理事 福山 忠彦(2021.11.11)
 「生誕160年グランマ・モーゼス展 素敵な100年人生」と題する展覧会が東京・世田谷美術館、大阪・あべのハルカス美術館、名古屋市美術館、静岡市美術館、東広島市美術館で巡回展示されています。東広島美術館が最後で2022年5月に終わる予定です。グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)はアメリカ人なら誰もが知る国民的画家です。夫を亡くした後、本格的に絵筆を握ったのは76歳からです。89歳の時には当時の大統領トルーマンからホワイトハウスに招待されました。雑誌「タイム」の表紙を飾ったのもこの頃でした。101歳でなくなるまでに1,600点の作品を残しました。第一次世界大戦後、世界一の工業国となったアメリカですが1929年の大恐慌、続いて起きた第二次世界大戦で勝利はしたものの、大きな犠牲で疲弊したアメリカ人の心をグランマ・モーゼスの描く田舎の風景画が捉えました。中央画壇で活躍する画家と異なり絵画に対する専門知識もない彼女は一体どのような人でしょうか。

■農家の主婦で、古き良き時代をまじめに生き続けた牧歌的画家
 本名アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスは1860年9月にニューヨーク州東部の貧しい農家に生まれました。12歳から奉公に出て27歳の時、奉公人仲間のトーマス・サーモン・モーゼスと結婚し、10人の子供を授かりますが育ったのは5人だけでした。1927年、67歳の時に夫と死別します。娘と孫娘と3人の生活の中で始めた刺繍絵を近所のドラッグストアに置いて細々と販売していました。70代になりリウマチの悪化で得意の刺繍絵製作が出来なくなりました。そこで絵筆を手に取りスケッチを始め、これをドラッグストアに並べました。すべてニューイングランドの自然や農村の暮らしを素朴な筆致で描いた作品です。これが、偶然、村を訪れた一人の絵画コレクターの目に留まり、全作品が買い取られます。そのうちの3点が1940年にニューヨーク近代美術館(MOMA)で「現代の知られざるアメリカの画家たち」で紹介されました。この時、モーゼスは80歳でした。これを機会に大手デパートが大キャンペーンを行いモーゼスは一躍、時の人になりました。当初からグランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)の呼称で親しまれ、モータリゼーションなどの近代文明とは無縁の、懐かしい農村風景や、季節と共に生きる人々の暮らしの絵は人々の心をしっかりとつかみました。大統領から表彰を受けるなど著名になってからも、モーゼスは相変わらず農家の一主婦としての堅実な生活を守り、101歳で亡くなるまで素朴で牧歌的な作品を書き続けました。

■遠くまで広がる田舎の風景、真面目に働く人々、誰もが郷愁を覚える絵 
 モーゼスの絵を一言で表すと「幸福感」を見る人に与える絵です。田舎に残る橋、水車小屋、古い家などを、愛情をこめて描いています。自然と人間が調和した世界が彼女の理想だったのです。当時爆発的に売れたT型フォードは彼女が暮らす農村にも普及していましたが、彼女の風景画にはほとんど登場しません。アメリカ人は最先端の科学文明を誇る一方で、田園風景に郷愁を抱き、モーゼスの描く幸福感の漂う古き良きアメリカを愛しました。91歳の時の作品「村の結婚式では主役は腕を組む新郎新婦ですが、中心にはいません。それどころか画面のあちこちにカップルが配置され、画面全体から幸福感が漂う絵にしました。自ら食物を育て、自ら小麦粉を挽き、自ら石鹸を作り、そして自ら衣服を縫っていた時代、現代の生活とはかけ離れたものであっても、誰もが郷愁とあこがれを抱く世界を描き続けました。絵のタイトルも干し草作り、洗濯物を取り込む、石鹸作り、羊を洗う、ろうそく作り、アップルバター作り、メープルシロップ作り、そして12月は皆でモミの木探しに森へという具合に美しく広大な田園生活を描き、見ているだけで幸せな気分に浸ることの出来る絵を101歳で亡くなる直前まで描き続けました。「人生は自分で作り上げるもの。これまでも。これからも。」「思えば、私の人生は、よく働き、満ち足りた一日のようなものでした。」という彼女の言葉が展覧会場には飾られています。自然と人間が調和した世界、古き良きアメリカの田園風景を描き続けた画家でした。

■画家の本流ではないが、人の心を惹きつけてやまないモーゼスの絵
もう10年以上も前にニューヨークのメトロポリタン美術館に行った時、グランマ・モーゼスの作品はありますかと尋ねたところ、飾っていないという返事をもらいました。彼女の存在は日本でいえば、「金子みすず」や「相田みつを」という詩人に近いと思います。その作品は人の心をしっかり捉えるものです。
金子みすずは大正時代から昭和初期の詩人です。
「昼のお星は目に見えぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」や「「遊ぼう」というと「遊ぼう」っていう。「ばか」っていうと「ばか」っていう。「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。そして、あとでさみしくなって「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。こだまでしょうか、いいえ、だれでも。」などは私の好きな彼女の作品です。
相田みつをは昭和時代の戦前戦後を生きた人で、自分で作った平易な詩を独特な書体で書いた詩人であり書家です。「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」「他人のものさし、自分のものさし、それぞれ寸法はちがうんだな」「歩くから道になる、歩かなければ草が生える」「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」などの言葉を相田流の書体で書き、掛け軸にしました。彼の言葉で最も人の心をひきつけたのは「やれなかった、やらなかった、どっちかな」だそうです。グランマ・モーゼスも金子みすずも相田みつをも画家や詩人の本流ではありません。しかし、何故か人の心をひきつける存在です。

■人生100年、75歳からは自在期、過去は過去、大切なのは今
 人間の寿命は年々延びています。日本人の平均寿命は男女ともすでに80歳を越えています。50年前の1970年(昭和45年)と比べてみると、12年以上延びています。さらに100歳以上の人数は、1963年(昭和38年)の153人から、昨年は86,510人と500倍以上の増加となっています。65歳以上の人口は30%、75歳以上の人口は15%という時代です。70代、80代の老人を至る所で多数見かける時代です。老人とか老後という言葉が通用しない程、数多く、そして元気な方が増加しています。私は年齢別人生を4つに区分してみました。
生まれてから25歳までを成長期、50歳までを活動期、75歳までを成熟期、そして75歳以降を「自在期」と名付けてみました。75歳からの自在とは「心のおもむくままに過ごす」という意味です。グランマ・モーゼスは76歳から独自の絵を描きだしました。仏教では「解脱(げだつ)」という言葉が使われます。縛るものから離れて自由になること、煩悩から脱して自由になることの意味です。社会的地位や名誉からも、そして子供も自立し煩う事もない状態になることです。人生をこれまでの延長として捉えるのではなく、自在に生きることです。後期高齢者という呼称は厚生労働省の管理区分と理解することです。いつお迎えが来ても泰然自若と受け入れることです。そして一日一日を解脱の境地で過ごすことです。新しいものにチャレンジして毎日成長することです。グランマ・モーゼスは絵を描くことによって自分発見を行いましたが、今までの自分と違う事へ関心を持ち、研鑽することが日常生活に潤いをもたらします。最後にもう一度モーゼスの言葉です。「人生は自分で作り上げるもの。これまでも。これからも。」「思えば、私の人生は、よく働き、満ち足りた一日のようなものでした。」そのような自分でありたいと思っています。
                              おわり

【「百日紅」と「翡翠」に癒されての日々】

常務理事 福山 忠彦 (2021.08.29)
 コロナ禍は自然との触れ合いをもたらすことになりました。庭の植物や散歩道での変化に敏感になったようです。庭の植木で今年、俄然目を引いたのが「百日紅」、読みは「サルスベリ」です。例年夏になると赤い小さな花の塊をいくつか咲かせますが、今年はその赤い花が爆発的に増えて庭で一番存在感を持つ花です。朝、雨戸をあけるときには、今年は「おはよう」と挨拶をしています。一日に何回となく見ています。もう一つは「翡翠」、読みは「カワセミ」です。毎朝近くの川沿いを散歩していますが、その時に出会うとても美しい瑠璃色の羽を持つ雀くらいの大きさの鳥です。「空飛ぶ宝石」「水辺の宝石」と呼ばれる有名な小鳥です。こちらは週2回ほど出会います。大きく長い望遠レンズを付けた一眼レフのカメラを持ったカメラ愛好者が必ず撮影をしています。彼らは早朝からカメラをぶら下げて芸能人の追っかけのように川べりを歩いています。私はこの二つが漢字と読みが似つかわしくないと思い少し調べてみました。百日紅と書くサルスベリ、翡翠と書くカワセミの話です。

■サルスベリ(百日紅)は、長い開花期間を持つが、その幹や枝で猿は滑らない
 初夏から秋までの長い間鮮やかな紅色、ピンク、白などの花を咲かせます。庭や公園、お寺や神社の境内などでよく見る私たちに馴染みのある木です。出しゃばらない木で、夏にひっそりと数個の花を咲かせていました。ところが今年はどうしたことか数十の鮮やかな真っ赤な花を咲かせたのです。7月末から、殺風景な夏の庭が美しい装いをした庭になりました。毎朝、雨戸をあけるのが楽しみです。文字通り100日間咲き続けるに違いありません。名前の由来を調べると次のような物語に出会いました。昔のことです。朝鮮半島のある村で、竜神への生贄として若い娘を捧げる風習がありました。ある時、その国の王子が通りがかり、話を聞いた王子は竜神退治を決意し、竜神と戦いを挑み、見事に娘を救い出しました。そして、二人の間には恋が芽生え、王子は「百日後には必ず迎えに来る」と約束しました。約束の日、村に戻った王子は娘が亡くなったことを知らされます。嘆き悲しむ王子。やがて、娘のお墓から一本の木が生え、花を咲かせました。その花は、愛しき人を今か今かと待つように、100日間咲き続けたそうです。爾来、この花を百日紅と呼ぶようになったそうです。中国では、唐の長安の紫微(宮廷)に多く植えられたため、紫微(シビ)と呼ばれます。江蘇省徐州市、四川省自貢市、台湾基隆市では市の花になっています。サルスベリと呼ぶのは日本だけです。樹皮はザラザラしていますが一度剥がれ落ちると白い肌が見え、とてもつるつるしています。見た目には、サルが木に登ろうとしても滑って落ちてしまいそうなことからサルスベリと呼ばれるようになりました。また、光が足りないと開花しないそうです。今年、沢山開花したのは6月末に庭の剪定を頼みサルスベリの木を覆っていた樹木の高さを半分にし、周りの木々の枝をすべて刈り払ったため、日当たりが著しくよくなりました。この剪定のお陰で花付きがよくなったようです。来年も百日紅の鮮やかな赤い花が見られるように枝葉への日当たりに気をつけたいと思っています。しかし、先ずは本当に100日の間、花が咲き続けるかどうか10月まで毎朝、激励するつもりです。

■宝石の翡翠はカワセミの羽の色に由来、環境改善のバロメータになる小鳥
 水辺に生息する美しい鳥です。最近では自然環境保護の象徴と言われています。河川の護岸がコンクリート化されるに従い、カワセミは著しく減少しましたが最近は自然と調和する護岸工事になりかなり回復してきました。そのため河川の回復度を測るバロメータとしてカワセミが選ばれました。この鳥の特徴は何といっても羽毛の色です。背中は瑠璃色で、腹はオレンジ色です。「水辺の宝石」という呼び名がぴったりです。カワセミは漢字では翡翠と書きます。宝石の翡翠(ヒスイ)はこの鳥の名前に由来します。鳥の名前が先にあり、宝石の名前に転用されたのです。よく見れば翡翠の「翡」にも「翠」にも「羽」という文字が含まれます。日本語のカワセミの由来は判っていません。鳴き声がセミに似ているという説がありますが、カワセミの鳴き声はセミに似ていません。きらきらと宝石のように輝く羽毛の瑠璃色は色素によるものでなく、羽毛にある微細構造により光の加減で見える色です。これは構造色と言われシャボン玉が様々な色に見えるのと同じ原理だそうです。フェルメールの有名な絵「真珠の耳飾りの少女」に描かれた少女の青いターバンの鮮やかな色にそっくりです。これは瑠璃(ラピズラズリ)と呼ばれる顔料で、当時は金と同じくらい高価なものでした。一度見ると忘れられない羽毛の美しい鳥です。幸いなことに私の散策する川べりに住んでいます。常に一羽です。縄張り意識が強く半径500メートルが一羽の縄張りだと聞きました。前述のカメラ愛好者たちは年に一度「川べりフォトミュージアム」と称して各人の自信作を川べりのフェンスに括りつけて展示します。鴫、カルガモ、放流されている錦鯉などの数十枚の写真の中でカワセミの写真は際立っています。大きな川魚を口にくわえた写真もあります。そう言えばカワセミは体の割に長いくちばしを持ち魚取りに優れた鳥だそうです。一枚の写真の為、早朝からの撮影に励む写真愛好家に敬意を表しながら見ています。単調な散歩ですが、新鮮な空気と翡翠は私の散歩に彩を添えてくれています。

 サルスベリ=百日紅、カワセミ=翡翠という読みと漢字が簡単に想像できない取り合わせの樹木と小鳥が近くにいることに気づきました。樹木と小鳥と種類は異なりますが、共に私の生活に変化を与え毎日を楽しくさせてくれています。漢字の方が出所も意味もよく分かりましたが、読みのサルスベリ、カワセミは出所も由来もはっきりせずに調べは終わりました。もうすぐ二年に及ぶコロナ禍の最中です。以前と同じ生活環境は戻ってこないでしょう。日々の生活リズムは同じでもモノの見方や価値観は同じではないでしょう。生きていることに感謝し毎日を大切にする人が増えてくることと思います。私もその一人だと思います。              

【コロナ後もWEBでの会議、学習、商談は定着する】

常務理事 福山 忠彦(2021.08.29)
 コロナ禍でテレワークが推奨されました。情報の入手、発信を文字だけでなく相手の画像や声を聞きながら行うようになりました。そのため、WEBで交信する人が非常に増えてきました。フェース・ツー・フェースでないといやだと言っていた人も、WEBでの交信に慣れ、いつの間にかWEB交信が生活の一部になりました。WEBは世界中どこにいても情報を得られるシステムです。生みの親はイギリス人のティム・バーナーズ=リー博士です。20世紀末、スイスのCERN(欧州原子核研究機構)に勤めている時に研究者の情報やデータの閲覧をスムースに迅速に行うためのリンクを用いたシステムを作り上げ、形状が蜘蛛の巣(WEB)に似ている事からこの名前が付きました。コロナ禍でステイホームになり通勤が抑制されたため、WEB活用が急速に普及しました。コロナ禍が早く収束すれば一過性の道具で終わったかもしれませんが、長く続くため、使い慣れして私たちの生活に深く浸透しました。私がどのように使っているか述べます。先ずは、ZOOMについて説明します。

■圧倒的活用頻度を誇るZOOMは中国人が米国で創業
 中国の山東省出身のエリック・ヤン(中国名:袁征)がZOOMビデオコミュニケーションズ株式会社を2011年にカリフォルニア州サンノゼで起業し、クラウドコンピューティングを使用したZOOMを提供したのが始まりです。ビデオ会議、オンライン会議、チャット、モバイルコラボレーションを組み合わせたWEB上でのコミュニケーションソフトウェアを提供したのです。彼はスタンフォード大学のエグゼクティブプログラムの卒業生です。コロナ禍でテレワーク、遠隔教育、オンラインなどの社会関係業務が増え、一日のユーザー数は2019年12月の1,000万人から2020年3月は一気に2億人に増加しています。米国司法省はZOOM社と中国政府との関係に気を配っています。なぜならば、中国政府は2020年の天安門事件に関するZOOM会議を閉鎖させ、そこに参加していた米国や香港の人権活動家のアカウントを停止させました。中国の国内法に違反するとZOOM社に通告したのです。また、2020年12月にはZOOM社の中国人幹部が、中国政府に協力し顧客情報を渡すとともに不都合な会議が開かれないか監視業務を行ったという疑いで、米国司法省はその幹部を起訴しています。日本の行政機関の多くはZOOMに躊躇しています。しかし、ZOOMはその利便性が圧倒的支持を得ているため世界中で使われています。

■十数名程度ならば相手の顔を見ながらの効率的な会議手段
 WEBミーティング(ZOOM会議)はすべての参加者が画面や音声を共有し、双方向でコミュニケーションが出来、1対1の面談、部内・グループ内のミーティングなどには最適です。通勤時間がいらない、相手の顔を見ながら話せる、参加者の意見を求めることが出来る、定時開催・定刻終了がしやすい、会議録はファイルでき、必要ならばサインもそれにできるという極めて便利な手法です。私の場合は所属している3つのNPO法人の定期会合はすべてこの方式になりました。このうちの一つは私が議事録を書いています。時には親しい友人とのお喋り会に、いわゆるZOOM飲み会にも使っています。海外の友人とも今までよりも頻度多く会えるというメリットがあります。通勤時間と身だしなみのための時間節約は極めて大きいと感じます。コロナ禍のあともリアルに会うか、ZOOMにするかという選択肢になると思います。

■増えたウェビナーとしての学習機会
 ウェビナーとはウェブとセミナーの二つを合わせた造語です。授業や講演会のように開催者(講師)側と視聴者(参加者)側に分かれます。画面や音声は開催者側が主導権を持ちます。誰が視聴しているのかを知ることが出来るほか、質疑応答や投票、アンケートなどを取ることも出来ます。一方向で配信するシステムなので授業、講演会、商品説明会、研修に向いています。参加者は画面に映りませんが講師側は参加者の様子を見ることが出来ます。参加者は会場への移動時間や交通費などがいりません。開催者側は会場探しや会場との日程調整の必要がなく、当日も受付や案内が不要です。会場を借りないために、参加人数の制限もありません。私の場合は、ウェビナー参加が増大しました。従来から参加している市民大学、企業や団体が行っているセミナーがウェビナーに代わるだけでなく、旅行会社を始めとして多くの会社がウェビナーを新規に開催するようになりました。毎日パソコンを開くとウェビナーへのお誘いメールがいくつも来ます。今夏に参加した大学の上期の講座名の一例を書くと、
・人口の東京一極集中の最新動向
・グローバリゼーションと日本企業の実態
・アフターコロナに予想される人々の行動変容
・DNAのセンシングとその物理的シミュレーション
・コンピュータグラフィックスの世界動向
事前に送られてくるファイルで予習します。ノートを広げて先生の講義を聞くときはまるで学生気分です。先生方は独演ですがまじめに熱心に教えてくれます。下期も興味ある講座が沢山予定されています。楽しみにしています。大手旅行会社によるビジュアルな絵画、美術史、時代背景の説明などは飽きることなく釘付けで見ています。産業界の有識者を集めて行うウェビナーは社会動向を知るうえで極めて大切です。8月のお盆明けは3日間、朝10時から夕方4時半まで27名の日本を代表する会社のトップが「IT JAPAN 危機を乗り越え、成長を加速させるために」と題する講演を聞きました。「働き方改革」「脱炭素化社会」「DX(デジタル・トランスフォーメイション)」が急速に進むことを主張していました。数千ではなく数万のウェビナーがいたと思われます。東京海上、三菱UFJ、日立、小松製作所、NTT、IBMといった伝統ある会社だけでなく、新興のスタートアップ企業も多数登場する大変盛大なウェビナーでした。これらは有料のものが多いですけれど、その費用は交通費程度なのでほとんど気になりません。

■WEB商談は慣れると利点の方が多い
 中国では毎年11月11日を「独身の日」としてインターネット通販各社による値引きセールが行われ何兆円もの販売が行われます。アリババはこの電子商取引会社のトップです。客はWEBのカタログを見て購入します。見て、触って購入を決める従来方式から変わっています。企業間の取引もWEBを使って性能、品質、価格、納期などを用意したパワーポイント資料を提示しながら行うことが出来ます。製造や設計部門の人も遠隔地であっても参加できます。営業の方が新幹線に乗って泊りがけで行くことなく商談を進めることが出来ます。海外との商談については極めて便利です。その時に出た課題対応も早ければその日のうちに回答できます。忙しいトップの方も加わることが容易になります。スピード感と詳しい説明が利点になります。WEB商談が主流になる日はそう遠くないかもしれません。

■「働き方改革」の切り札になるWEB活用
 IT化で世界に遅れていることが判明した日本です。行政府の遅れを指摘する前に身の回りを見る必要があります。現金支払いはかなり減ってきました。ATMの撤去が進んでいます。カードやスマホ払いが順調に進んでいます。それでも近隣の韓国、台湾、中国にはまだ追いつきません。最近は日本人の生産性が低いと指摘されています。長時間勤務や夜のノミニケーションが定着していた日本社会の変革の切り札となることがWEB活用の最大の効用だと実感しています。これにより「経営のスピードアップ」や「女性の幹部の登用」も一段と進むと考えられます。出勤日は減少するがアウトカム(成果)は確実に上がることが期待できます。リアルに会う出勤日は従来よりも中身が濃いものになるでしょう。こうして人々はより充実した生活をすることが出来ます。コロナ禍がもたらした効果の一つは明らかに「WEB活用の働き方改革」と言っても過言ではないでしょう。日々の生活を豊かにゆとりあるものに変えるでしょう。(おわり)                     

【縄文の栗林とベーシックインカムの共通性】

経済・財政・金融問題分科会 主任研究員 駒田朗(2021.07.21)

 ベーシックインカムは縄文時代の、三内丸山遺跡にあったという広大な栗林と同じようなものだと思うことがあります。どういうことか。

 縄文時代、三内丸山遺跡では、人々が何世代にも渡って集落の近くに栗の木を植え、広大な栗の林を形成していたといいます。何世代にも渡って人々が積み上げてきた「資産」のようなものです。この資産は集落のすべての人の共有財産です。しかも、ほとんど労働を必要とせず、放置していても勝手に栗の実が大量に収穫できるわけです。もちろん、まったく労働が必要ないわけではありませんが、稲作のような手間は必要なかったのではないかと思います。これは考古学的に正確な話ではなく、あくまでも比喩のための話ですが。

 なぜ栗林は個人の所有物ではないのか?稲作のように、限られた場所で集中的に作業を繰り返さなければ収穫できないわけではないからです。稲作のような「人手によって作られる」ものは、作った人がその権利を有したいと考えるでしょう。しかし、栗の実は、ある意味、ほったらかしでも勝手に実るわけです。人間は拾って食べるだけ。しかも、人々が生活する上で十分な量が収穫されるのなら、喧嘩して奪い合ったり、「この栗の木はおれの木だ」と必死に独占権を主張する必要はありません。

 それに、そもそも栗の林は、何世代にも渡って受け継がれてきますから、例えば誰かが栗を植えたとしても、世代を超えるうちに誰が植えたかなど忘れられてしまうでしょう。誰が植えたか(所有権)など、どうでも良いのです。自然に実をつける、広大な栗林という「資産」が、すべての人の生活の基礎をささえてくれるのです。誰が栗林を所有するかではなく、栗林がすべての人々の生活を支えてくれる、それこそが最も重要な事です。

 では、栗の林があるから、人間は怠惰になって、何もしなくなるのか?そんな話はありません。生活のベースとなる栗の実が確保されたとしても、人々は共同で狩りをしてその獲物を互いに分配したり(分配経済)、あるいは自分一人で生活に役立つ土器や石器のような道具を作って、他の個人と交換し合ったり(交換経済)、自由に活動するわけです。ただし、栗の林はいつも豊かに実り、人々の生活を支えてくれるのです。

 しかし時代は流れ、すべての資産が誰かに所有される時代になると、そんな生活は夢のような話になってしまいました。確かに、生産効率から言えば、生産性の高い生産主体に資本を所有させたほうが、より少ない資本でより多くの成果物を得ることができますので、生産の総量としてはより多くなります。しかし、すべての人々を満足させるための分配の仕組みが確立されていないため、争いが絶えることはありません。そして、人工知能やロボットのような「完全自動生産機械」が急速に進化しつつある現代、曲がりなりにも分配のシステムとして機能してきた「労働市場」「賃金(労働の代価)」という考え方は、崩壊に向かいつつあります。

 こうしたなかで、再び「縄文の栗林」の考え方が重要視されるべきではないかと思われるのです。縄文への回帰です。それは決して悪いものではないはずです。人々の生活は、いつも栗林によって守られるのです。栗林は太陽や大地の恵みによって、人手を要することなく多くの実りをもたらし、すべての人々の生活を支えます。一方、人工知能やロボットも、人手を要することなく多くの財を生産することができますので、すべての人々の生活を支えることができるはずです。遠い将来の話ではありません。実際、すでに機械が私たちの生活の大部分を支えていると言っても過言ではありません。すでに、そういう時代に踏み込んでいるのです。

 では、人工知能やロボットは誰のものなのか?人工知能もロボットも、個人あるいは企業が、まったくのゼロから作り出したものではありません。すべての発明も技術も、過去の多くの先人たちの残してくれた、知的資産あるいは社会的な資産の蓄積を利用する形で成り立っています。それは、縄文の栗林のように、昔の人が植えた栗の木が代々引き継がれ、誰が植えたのか、もはやわからない栗の木が、土台となっているのと同じです。ですから、確かに人工知能もロボットも、それを直接に発明した人々の努力の成果ですが、それと同時に、先人たちを含め、私たち人類の共有資産の一部でもあるのです。

 そして、人工知能やロボットの進化によって、人間がその共有資産の形成のために費やす労働・努力の度合いはますます小さくなるでしょう。すなわち、もはや、誰の努力の成果であるかを主張することすら、バカバカしい状態になります。それは、ほとんど「大自然の恵み」と同じようになるからです。究極に進化した自動生産システムは、太陽の絶えることないエネルギーを利用し、人々の生活のための財を生産し、不要になった廃品を回収し、リサイクルして、再び太陽のエネルギーを利用して人々の生活を支える財を生産する。これは自然界における物質循環と何ら変わることはありません。

 もちろん、明日からそんな社会になるわけではありません。しかし、最終的にそうなるのであれば、可能な限りのスピードで、今から、それに向かって変化すべきだと考えても何ら不思議ではありません。明確な未来へのビジョンを持ち、一歩ずつ着実に、縄文の栗林の世界に向かって進む。

 すぐに始めましょう。月額1万円を、全国民に給付するところから。<了>

・著者元記事:http://noranekoma.blogspot.com/

【GO TOトラベルに8回参加、オリパラ実現を願っています】

常務理事 福山忠彦(2021.07.07)
 昨年秋、私はGO TO トラベルを8回利用しました。飛行機、新幹線、電車、バスなどの交通機関、ホテル、土産物屋、レストランを數多く利用しました。
 「私はプリンスホテルにこの4月に入社し、やっと10月から働き始めました。嬉しいです。」と語ったザ・プリンス芦ノ湖の女子従業員。
「ハロウィンに若い家族がこんなに沢山来て頂き、子供の笑顔が見れて楽しいです。」
と語った星野リゾートの八ヶ岳リゾナーレの古参従業員。
「東京からわざわざこの長崎を選んでくれてありがとうございます。感染に注意して毎日入念にウィルス対策をしています。」と語った稲佐山観光ホテルのフロントの方。
「嬉しい。とにかく嬉しい。」と語り食後にコーヒーを各人に配った京都の老舗近江牛すき焼き店の店主。
 人流の抑制、飲食の制限の現在ですが、去年秋の僅かばかりのGO TOトラベルの期間はこのような声が聞ける大変貴重なものでした。僅か数カ月の一息付けた時でした。確たる根拠もないのに識者やマスコミはGO TOトラベルは最悪であったと今でも語っています。あの時、私たちを喜んで迎え入れてくれた方たちは、今はどんな気持ちで過ごしているでしょうか。心が痛みます。
 オリンピックについては間もなく実施の可否や実施の成否が出てくると思いますが、私は何とかして実施して大過なく終わって欲しいと思っています。2013年9月にトルコのイスタンブールとスペインのマドリッドを破り東京が選ばれました。財政基盤が安定し、世界で最も安全な都市であるという選定理由でした。ところがコロナ禍で一年延期となり、いまだに先が見えず、街の声も開催を危惧する意見が多く聞かれます。いばらの道を歩む開催ですが、日本は乗り切るだろうという世界の期待を担って関係者は識者やマスコミの連日の叱責の中、安全安心の大会の実現に努めています。私自身は抽選に当たった男子陸上の切符を今も持っています。もし、無観客での開催になったならば事務局にそっくり寄付しようと思っています。
 GDPが世界第2位になったのは1968年(昭和43年)、そして2010年(平成22年)に中国に抜かれるまで42年間、私たちの時代は世界第2位でした。忙しい日々でしたが日本の繁栄を謳歌させてもらいました。今回のコロナ禍は日本の後進性を見事に暴露しました。DX(デジタルトランスフォーメーション)の著しい遅れと意思決定や政策遂行のスピードの遅さです。それに気づかなかった私たち世代は大いに責任があります。オリパラの成功は「日本ここにあり」と世界に意思表示する場になります。その後は2025年の大阪万博が続きます。なんとかオリパラを成功させ日本に新しい一歩を踏み出して貰いたいと切に願っています。(おわり)

【頑張れ日本!次世代の牽引者になろう!】

常務理事 福山 忠彦( 2021.06.01)
 資本主義は素晴らしい恩恵を私たちにもたらしました。お陰で便利で豊かな生活を楽しむことが出来ています。昭和三十五年、所得倍増計画で池田勇人内閣が日本を引っ張って以来、その後の三十年間の昭和の時代はすべてが右肩上りでした。一億総中流と言われカー、クーラー、カラーTVの三種の神器がどの家庭にも普及しました。21世紀は日本の世紀だともてはやされました。しかし、沈滞した平成時代が終わった今、資本主義社会のマイナス面が目立ってきました。人口の都市集中と地方での過疎、地球資源の乱開発、貧富の差の拡大、異常気象などが起きています。

■年毎に増える貧困層と貧富の差の拡大
 長い間慣れ親しんできた「年功序列」「定年制度」「ピラミッド型組織」はもはや過去の遺物です。長い間、これに安住し平穏な生活を営み、みんな同じような生活でした。しかし、平成時代になるとちぐはぐ感が出てきました。二極化が起こり貧困者の増加が目立ってきました。厚生労働省は、日本の「相対的貧困率」は15.6%であり、7人に一人が貧困状態にあると発表しています。これは「年間可処分所得(いわゆる手取り額)の中央値の半分以下の所得水準世帯」の数字です。金額にするとおよそ500万円の可処分所得の半分の半分、つまり125万円以下の世帯が15.6%あるという事です。これは世界の先進7ヵ国の中で下から2番目です。さらに15.6%のうちの半数がひとり親世帯です。離婚後、8割の父親が養育費を払っていません。母子世帯数は124万世帯、貧困世帯数はそのうちの半分62万世帯、つまり124万人以上の母と子が貧困と戦っています。貧困家庭の子供は教育格差を生みます。OECDでは勉強机や自室、参考書、コンピュータなどの十三項目のうち5項目以下しか保有していない生徒を貧困生徒とみなします。日本の生徒の5.2%がこれに該当し、OECD加盟38ヵ国の中で最低です。当面は「こども食堂」などのボランティア活動でしのいでいますが、世代を超えて「貧困の連鎖」を危ぶむ声が段々大きくなってきています。間もなく起きる次の課題として高齢者の貧困問題があります。年金や健康保険が人口減少、高齢化によって現在の水準を維持できなくなり、人口の3分の1を占める高齢者の半数が貧困層になる恐れがあります。

■地球温暖化に歯止めをかける運動の盛り上がり
 地球の気温はこの百年で0.6度、日本は1.0度上昇しています。このため1988年にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が国連環境計画と世界気象機関によって発足しました。2015年のパリでの会議では次のことが決まりました。
・気温上昇を産業革命以前に比べて、2度より十分低く保ち、1.5度に抑える努力をする。
・そのため、2050年には温室効果ガス排出量と(森林などによる)吸収量のバランスをとる。(カーボンニュートラル)
この方針に基づき日本政府は「2030年に温室効果ガス削減目標46%、そして2050年100%削減」を表明しました。これにより各業界は一斉に動き出しました。石炭・石油を使う火力発電の縮小、太陽光などの再生エネルギーの拡大をはじめ各企業は自社製品の見直しを開始しました。

■資源は有限、地球を大切に、これに気づいた私たち
 多くの人が乱開発をした地球の未来を危惧する時代になりました。至る所で不都合が出てきました。プラスチックはその典型例です。脱プラスチック運動が起きています。東京オリンピックではメダルが携帯電話から回収された貴金属で作られます。国連が主導するSDGs(持続可能な開発目標)では「つくる責任、つかう責任」として天然資源の持続可能な管理及び効率的な利用を促す活動を勧めています。一人当たりの食糧廃棄物の半減も目標に入っています。

■資本主義の次の時代の到来が待たれます
 ジェームス・ワットの蒸気機関で産業革命が起こり、それが資本主義の誕生へとつながりました。250年経った今、資本主義の中核である金融の面でも資金調達が銀行一辺倒でなくなりました。また、現金を使わないキャシュレス取引、暗号通貨、デジタル通貨も現れました。政治家、経済学者、経営者の方々に将来の社会を是非論じて頂きたいと思います。そしてコロナ後の世界をリードする役割を日本が担う提言をして欲しいとと思います。私が知る未来社会ビジョンとして次の三つがあります。

■その1 「リサイクル」と「シェアリング」が中心の循環共生主義
 私たちの身の回りのものはほとんどすべて地球の資源から調達されたものです。再生可能なものもありますが圧倒的に元に戻らない不可逆的なものばかりです。地球を乱開発してきました。食料も先進国では大量の廃棄が行われています。温暖化や異常気象がじわじわと確実に私たちを襲ってきています。便利、快適性の追求の代償を払う時が来ました。「リサイクル」と「シェアリング」の動きが出てきています。この際、これを経済活動、技術開発の中心に据え、それを循環共生主義(CIRCULISM)と呼ぼうというものです。

■その2 「ベーシックインカム(BI)」で格差社会を脱却
 昨年、全国民に一律に10万円の給付が、収入の多寡、年齢、老若男女にかかわらず等しく支給されました。このように「すべての国民に、無条件で毎月支給される最低生活費」のことです。すでにいくつかの国ではBIの実証実験が行われました。「働く者、食うべからず」ではなく、最低生活費を国が付与する仕組みです。次のようなメリットが期待できます。
・年々拡大する貧富の差が解消できます。
・最低生活費が保障されるので、新しい目的にチャレンジできます。
・ブラック企業が淘汰され、労働環境や待遇の改善が期待できます。
・生活費の高い都市部から地方への人口移動が起きます。
・貧困による窃盗や強盗などの犯罪者が減少し治安がよくなります。
財源は現在支給されている年金、生活保護費、児童手当などの社会保障費が代替されるので86兆円、これらに携わる行政府の人件費その他もろもろの経費を加えると100兆円弱になります。これは月一人当たり7万円支給できる計算になります。夫婦二人で毎月14万円、子供が二人いると28万円、これに働く人の月収が加わります。このような背景のもとでこの議論がなされています。私はBIを数字の計算で論議するのは片手落ちだと思います。これは生きがいに絡む問題だからです。今後の活発な検討に期待しています。

■その3 指標GDWで幸福度重視の国家運営
 ご存じのGDP(国内総生産)をもじって、PをWにした指標です。WはWell-beingつまり幸福という意味です。既存のGDPでは捉えきれない、社会に生きる一人一人の幸福度を捉えた指標です。従来の幸福度や満足度とは異なり、文化性も考慮した多面的指標です。GDPが量的拡大を目指し、物質的な豊かさを図る指標であるのに対し、GDWは質的向上を狙い、実感できる豊かさを測定する指標です。日本で一時有名になったブータンが世界一となったGNH(Gross National Happiness)とは異なる指標です。評価項目としてはQOL(生活の質)、一人当たりのGDP、自由度、信頼度、寿命、社会保障、社会の寛容性など多方面にわたります。国連では2012年より毎年調査しています。最新の2019年の結果ではフィンランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オランダの北欧諸国が上位五ヶ国でした。日本は世界第2位の長寿国であり、一人当たりGDPは24位と高いものの、社会の自由度、社会の寛容度で大きく順位を下げ58位でした。もう少し多様な生き方や価値観を受け入れることが出来たらこの順位を大きく上げることが出来ます。因みにこの調査でブータンは95位でした。今年3月、日経新聞社が「日本版 Well-being Initiative」を著名な企業14社と共に立ち上げました。狙いは日本においてWell-being経営を行う企業を増やし、成熟経済における営利組織の長期的な価値創造および価値評価のあり方を提示することにあります。また、自民党の現政務調査会長の下村博文氏は今年4月に「GDW興国論 幸福度世界一の国へ」を出版しました。

■活発な論議と未来社会の提言を世界に
従来の資本主義は修復できない程ほころびています。新しい時代の案を三つほど書きましたが、「その一」は私の持論、「その二」は現政権内で深く慎重に検討されている案、「その三」は自民党の現政務調査会長の主張です。ポスト資本主義はコロナ後の大きな論点です。そしてそれは経済だけの問題ではありません。人が幸せに生きるという課題と直結します。目前の課題である「2050年に脱炭素化社会の実現、そのために2030年に排出される炭酸ガスの46%を吸収させる」という日本が世界に約束した活動とも大きく関わってきます。政治家、経済学者、企業経営者、若者に活発に論議して欲しいものです。ビジョン、方向付けが決まったら、「日本は今からこの目標で国を運営します」と国内はもとより世界に向けて宣言することです。そして仲間作りを始めることです。日本のブランド価値はまだまだ世界に通用します。日本が未来のビジョンを語ることは日本再生だけでなく、必ずや世界いや地球を救う活動になります。<おわり> 

【「論語と算盤」を貫いた渋沢栄一

常務理事 福山 忠彦(2021.05.05)

今年の4月に埼玉県深谷市にある渋沢栄一の生家と記念館を訪問しました。ご存じのようにNHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として活躍中の話題の人物です。また、2024年にデザインが一新される一万円札の顔になる人です。渋沢栄一は紙幣の肖像の候補者として、これまでに何度も選ばれ、1963年には最終候補にまで挙がりました。「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢が、一万円札紙幣の肖像となるのは、聖徳太子と現在の福沢諭吉に次いで3人目です。深谷市は我が家からは100キロ、都心からは70キロに位置します。人口14万人の日本では中堅の長閑な地方都市です。昨年来、渋沢栄一が生まれ育ったという事で大変脚光を浴びています。二つの渋沢のアンドロイド(人型ロボット)が立像は記念館、坐像は生家にあります。記念館にある立像は彼の持論である「道徳経済合一説」つまり、「道徳」と「経済」は両立して進むべきものであると私たちに語りかけます。座像は生家の大広間で和服を着た姿です。共にアンドロイド制作の第一人者の大阪大学の石黒浩教授が技術指導をしています。「論語と算盤(そろばん)」は彼の事業の集大成として1916年に出版されました。論語の精神で、経済を持続的に活性化させようという内容です。「道徳経済合一説」は経済界の人々に話すときはもちろん、幼稚園で子供たちに語るときでさえ、いつも最後はこの話をしたそうです。渋沢は91歳まで長生きした人です。農民の出でありながら第15代将軍徳川慶喜に仕え、500もの企業を起こし、600ものの社会事業に携わった渋沢の人生を辿ってみます。

論語に親しみ、藍玉の商いで経済を学び、領主代官所で理不尽を問う
 生まれは1840年(天保11年)亡くなったのは1931年(昭和6年)の91年間の生涯です。生家は農業だけではなく藍玉の製造販売と養蚕を兼営していました。藍玉は藍の葉を発酵・熟成させて作る染料です。渋沢は父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れや調達にも携わり、幼くして経営的才覚が磨かれました。17歳の時、父の代りに出席した領主代官所で理不尽な御用金の上納を命じられた際に、すぐに承諾せず物議をかもし、大騒動になりました。父は非常に勤勉、厳格で教育に熱心で、5歳になると漢籍の手ほどきをし、7歳からは従兄の尾高惇忠から論語をはじめ四書五経や日本外史を習います。また、剣術は神道無念流を学んでいます。慈悲心に富んだ母は恵まれない子女や病気の人、らい患者の入浴の手伝いをするような人でした。論語の精神、慈愛の心、経済感覚を十代で体得した渋沢でした。

攘夷派志士から、一橋慶喜の家臣へ、そしてパリ万博の随行員へ
 ペリーが4隻の軍艦と共に日本に来たのは1853年、ハリスが日本と日米修好条約を結び、日本の初代駐日公使になったのは1859年です。日本国中の若者に攘夷、そして尊王の思想が蔓延します。21歳で初めて江戸に来た渋沢も尊王攘夷思想に目覚め従兄の尾高惇忠、同じく従兄の渋沢喜作らと、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携し幕府を倒す計画を立てます。計画は尾高惇忠の弟の尾高長七郎の懸命な説得により中止となります。親族に影響が及ばぬように、勘当を受けた体裁をとり京都で過ごします。このころ、渋沢の才覚と人間力に目を付けていた一橋慶喜の腹心の平岡円四郎に、慶喜へ仕えることを薦められます。平岡円四郎は渋沢栄一が尊王攘夷派であり反乱も計画した男であることを知った上でのことです。全国から有能な家臣を求めていました。渋沢も攘夷論では日本を救えないと考えていた時期でしたので慶喜に仕える道を選びました。この時、渋沢は25歳でした。翌年、パリでの万国博覧会の幕府随行者に選ばれます。1年半に及ぶ海外経験は渋沢をさらに大きくさせました。この万博は日本が初めて正式に参加し、幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品し、いわゆるジャポニズムの契機になりました。訪欧中に大政奉還が行われ、新政府からの帰国命令で帰ります。欧州訪問での一番の収穫は「合本主義」でした。事業を行うには、最も適した人材と資本を集めて行うという考え方です。多くの人が資本を持ち寄って会社を作る株式会社のことです。当時、資本主義という言葉はなく渋沢は長いこと人、物、金、知恵を合わせた合本主義という言葉を使っていました。

明治政府の民部省・大蔵省の役人として
 パリからの帰国後は静岡に謹慎していた徳川慶喜に仕えました。静岡藩ではフランスで学んだ株式会社制度を実践し、新政府からの借入金返済のための商法会議所を設立しました。これは銀行業務と物産販売を兼ねた組織でした。これが新政府の重鎮である大隈重信らの目に留まり、新政府の民部省に請われ度量衡や国立銀行条例の制定に携わりました。民部省が大蔵省に統合されると井上馨らとともに国家予算の編成に取り組みました。大久保利通らと激論を交わしたのはこの時期でした。新政府の要人の中でも大隈重信とは生涯長い付き合いをしています。しかし、「経済で社会を動かす」「民衆の力で社会を動かす」との思いが断ち切れず33歳で大蔵省を離れます。

インフラ型の社会貢献事業を主に500以上の会社設立
 大蔵省を辞職した渋沢栄一は自ら設立を指導した第一国立銀行(現:みずほ銀行)の総監役に就任します。これが日本初の銀行です。そして公益に資する民間取引銀行の設立を次々に行います。また、大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社、現在の王子ホールディングスと日本製紙を興します。日本鉄道会社(東日本旅客鉄道),東京電灯会社(東京電力ホールディングス)、東京ホテル(帝国ホテル)、日本土木会社(大成建設)、京阪電気鉄道(京阪ホールディングス)、汽車製造(川崎重工業)などの会社の設立にかかわります。その数は500以上です。経済団体の設立も行います。拓善会(東京銀行協会)、東京商法会議所(東京商工会議所)を設立し政府に業界としての提案を行います。広く資本を集め事業を起こす合本主義を実践するために、東京株式取引所も設立しました。

福祉・医療・教育・国際交流・民間外交でも活躍
 生活困窮者救済事業の養育院、現在の東京都健康長寿医療センターには生涯にわたりその運営に携わりました。また、西南戦争の傷病兵を敵味方なく救護する博愛社が日本赤十字社になると常議員になりました。東京慈恵医院(東京慈恵会)や癌研究会の設立に尽し副総裁となります。当時は実学教育への関心が薄いため、商業講習私塾を商法講習所(一橋大学)として経営委員となります。伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として女学館を設立し、日本女子大学の創立にも関わり、実業界引退後はそれぞれの館長、校長を引き受けます。新島譲の同志社大学や早稲田大学の理工系への事業拡大時には基金管理委員長になっています。1879年、アメリカ第18代大統領グラント夫妻の引退後の訪日では渋沢の自邸(北区飛鳥山)で歓迎会を開いています。また1881年のハワイ王国のカラカウア王の来日招待会も自邸で行っています。その後、1902年の渋沢訪米時には第26代ルーズベルト大統領と会談しています。

■実業界引退後も各方面で貢献し91歳で他界
 渋沢は数え七十歳の古希に実業界引退を表明します。1931年(昭和6年)亡くなるまでの20年余りの間、民間外交・教育・福祉・医療の分野で活躍します。引退後はアメリカに3度行き第27代タフト大統領、第28代ウィルソン大統領、第29代ハーディング大統領と会談しています。日本太平洋問題調査会や日本國際児童親善会を設立し、アメリカの青い目の人形と日本の市松人形を交換します。1931年の中国での水害時には水災同情会会長となり義援金募集に努めます。ノーベル平和賞候補に1926年、1927年の二回なっています。医療の分野では北里柴三郎の日本結核予防協会の評議員、聖路加国際病院の評議会副会長に、さらに理化学研究所の設立者総代になっています。1923年の関東大震災では罹災者収容、炊き出し、災害情報版設置、臨時病院確保など率先して行いました。葬儀は青山葬儀場で行われ、谷中霊園渋沢家墓地で眠っています。

「合本主義」と「道徳経済合一説」で財閥を作らず
 合本主義は「公益を追及するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させる」というものです。道徳経済合一説は幼少期に学んだ「論語」を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、国全体を豊かにし、得られた富は社会全体で共有し、社会に還元することを唱え、実践しました。そのため三井、住友、三菱のような一族で固める財閥を形成することなく、社会に役立つ会社や社会事業を次々に作ることが出来ました。

■一言で表現できない明治、大正、昭和を生きた偉大なる人物
福祉、教育、医療、国際交流、民間外交に費やした年月は長きにわたります。実業界引退後も20年以上活躍しています。四人の現職のアメリカの大統領と会談した日本人は誰もいません。今も残る500以上の会社、600以上の社会活動を興した人もいません。農民として生まれ、尊王攘夷活動、徳川慶喜の側近、明治政府の大久保利通・大隈重信と共に働き、その後は財界人活動、慈善事業と様々な活動を行い日本の地位向上に努めました。国を強くするには、政治や軍事よりも経済の確立と民間外交が必要であるという信念を持っていました。この文章のタイトルを「論語と算盤で貫いた渋沢栄一」としましたが、それでは語りつくせない偉大なる人物です。「日本資本主義の父」と多くの本に書いてありますがそれは彼の一面をとらえただけのものです。「純粋な公益の追求者」であり、「日本全体をよくしたい」と切実に願って行動した91年の生涯でした。今年放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で、渋沢栄一はどのように描かれるでしょうか。どこに焦点を絞り、どのような人物として物語を進めていくか楽しみにしています                           <おわり>

【核融合開発の中国の報道について】

栗原 研一( 量子科学技術研究会発機構 核融合エネルギー研究開発部門 那珂核融合研究 所長 / 工学博士 ) 2021.1.30.

 核融合開発の中国の報道ではご心配をおかけしています。ただ、どうぞご安心下さい。
この報道の中国西南物理研究所(四川省成都市)の装置HL-2Mは、中型トカマクという規模で、日本を含む先進国(日米欧露)では今から40年ほど前に実験していた比較的規模の小さい装置です。学術/技術的には、世界で見ますとニュースというほどではありませんが、これまで核融合分野で後発であった中国が、核融合先進国に国をあげて追いつけ追い越せと頑張っているいう意思表示かと認識しています。中国の核融合への開発投資は、現在相当な額に上っているとの情報もあり、現時点では、まだ製造に関する産業基盤では日本との差は明確ですが、研究者人口を考えますと決してうかうかしていられない状況、と思っております。

日本では、大型トカマクJT-60を、35年前の1985年から2008年まで稼働させて、日米欧露の核融合先進国での競争の結果、重要性能での世界記録は、この日本のJT-60が樹立し今なお破られていません。今回の中国の装置は、それより小さく、実験を始めてもJT-60に遠く及ばないと予想されます。装置の大きさで性能をある程度予測する知見は既に我々は持っております。今、ITERという発電一歩手前(熱出力50万キロワット)の超大型トカマク装置を南仏に日米欧露中韓印の7国が協力して建設中(日本は主要先進機器を物納)で、完成まで70%以上製作が進んでいます(https://www.iter.org)。
また茨城県那珂市では、JT-60を超伝導化したJT-60SAという装置(https://www.qst.go.jp/site/jt60/5148.html)の建設が日欧協力で進み、既に全コイルが超伝導状態に移行し、今年早々にプラズマ実験を開始します。
このように、日本は、核融合研究開発の先頭を走っているのですが、日本や先進国の研究開発に関する宣伝不足は、大いに問題です。日本においては間違いなく誇れる先進技術分野だと思っていますが、その認知度が低いことは我々の反省点です。基本的に我々開発当事者の努力不足ですので改善を急いでおりますが、現実はその成果がまだ出ているとは言えない状況です。<了>

【慶応元年に日本に来たシュリーマン】

福山 忠彦(常務理事 2020.5.15)

シュリーマン

  8歳になったハインリッヒ・シュリーマンに父親は「子供のための世界の歴史」を与えました。そして、その本は彼の一生を変えました。幼いシュリーマンは本に出てくる古都トロイア(トロイ)に惹かれ、いつかその場所を探し当ててみたいと固く誓ったのです。古代ギリシャの詩人・ホメロスの叙事詩「イーリアス」に描かれたギリシャ先史時代の英雄たちの伝説に心躍らせ、その遺跡を自らの手で発掘することを夢見ていました。後年、彼が発掘したトロイアの遺跡はエーゲ海の北東部(トルコ領)にあります。

エーゲ海は西をギリシャ、そして東をトルコに囲まれた穏やかな内海で南は地中海につながっています。私は遺跡のランドマークとも言うべき「トロイの木馬」を見ようと10年前に行きました。観光客用に再現したものですが、中は数十人の兵士が隠れることの出来る大きさです。階段で2階に上り出窓から外の景色が見えます。トロイア攻撃の奇策としてギリシャ軍は大きな木馬を作り、その中に兵を潜ませ、言葉巧みに木馬をトロイア城門内に入り込ませ、夜になると兵士が出てきてトロイア軍に襲い掛かりギリシャ軍が勝利した話です。

 シュリーマンは歴史書を細かに読み込んだ結果、その場所を割り出し、見事に発掘を成功させました。この土地一帯がエーゲ文明の栄えたところでした。シュリーマンが発掘調査を行った遺跡は9層からなる長い歴史を持つ遺跡でした。彼が発掘したのは第2層でトロイア戦争のかなり前の層です。トロイア戦争遺跡は第7層であり彼は深く掘りすぎていました。このようにここは紀元前3000年からの遺跡が堆積された場所であり、現在も各国からの考古学者の発掘が続いています。公衆浴場の跡、小さいながらも劇場跡、古代人が往来していた両側に縁石がある道などが発掘され歴史のロマンを感じられる場所です。彼はギリシャ古代文明の解明に大きな功績を残しました。その研究はその後に数多く修正されていますが、エーゲ文明発見者としての功績は今でも消えることはありません。

 シュリーマンは北ドイツの貧しいプロテスタントの牧師の子として1822年に生まれました。母親は9歳の時に亡くなり叔父の家に預けられました。貧困から脱するため南米のベネズエラに移住を志しましたが、船が難破しオランダ領の島に流れ着いたことから、オランダの貿易会社で働きました。オランダ時代に彼が成し遂げたことは2つあります。一つは英語をはじめとする外国語の習得です。二つ目は実業家としての才覚を開花させたことです。22歳で6か国語をマスターし、その後、全部で19か国語を習得しました。その中には誰も使わない古代ギリシャ語もあります。勉学の方法は彼自身で編み出したものを計画的に実行したことにあります。彼はもともと語学習得に大きな関心がありました。

・文章を丸ごと覚え、それを声に出して反復練習する。
・意味を理解するために翻訳しないでそのまま覚える。
・常に興味ある対象について作文を書く。
・作文や発音をネイティブに直してもらう。
・直してもらったものを暗唱する。

 最初に学んだのは英語です。大英帝国華やかりし頃なので当然でしょう。次いでフランス語です。彼の処女作「中国と日本」は見事なフランス語で書かれています。彼はオランダのシュレーダー商会で、ロシア相手の藍色の染料インディゴで大成功をおさめ、若干23歳でロシアのサンクトペテルブルグに商社を設立し独立を果たします。さらにゴールドラッシュで沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収めました。1853年に勃発したクリミア戦争では、多くの投資家がしり込みする中、硝石・硫黄・鉛などの戦需品を大量に売りさばき、さらに1861年のアメリカ南北戦争では大量の綿花を買い占め、一躍戦争成金として名を成しました。彼の類いまれな商才はそのほかの取引でも発揮され若くして莫大な富を築き上げました。

 1863年 シュリーマン41歳、の時にこれまでの事業すべての清算を始めます。遺跡発掘という人生の大目標の達成のためにすべての事業から身を引き、考古学に残りの人生を捧げる決心をします。当時、考古学の中心はパリ大学とされており、パリに居を移す計画を立てますが、その前に世界の国々を見ておきたいと考え、地球一周の旅に出かけます。最初にカルタゴの遺跡を自分の目で確かめるために北アフリカのチュニスに向かい、エジプト、インド、中国を通って、日本にやってきます。日本の次はアメリカのサンフランシスコに向かっています。その船中で彼は「清国・日本」という旅日記を流暢なフランス語で書き上げこれが彼の処女作となりました。

 シュリーマンが日本を訪問したのは1865年(慶応元年)6月1日から7月4日までです。上海から蒸気船で3日の旅で霊峰富士の雄大な姿を見ながら江戸湾の横浜港に着きました。「私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。」と日本への熱い思い入れを素直に語っています。慶応元年と言えば江戸時代の最後の年号です。二年後に大政奉還を控え、国内は開国派と攘夷派に分裂して抗争を繰り広げていました。外国人に対する襲撃事件も頻発し、外国人の多くは身の危険を感じて江戸を引き払っていたため、江戸では最も安全な麻布善福寺のアメリカ合衆国公使館に滞在します。写真は当時の善福寺です。この寺は日米通商条約締結の際、タウンゼント・ハリスの宿舎となって以来アメリカとの関係が深い所です。また、シュリーマンの日本滞在に協力したのがグラバーです。彼は、元来は武器商人ですが、幕末から明治にかけて日本の近代化に尽力した人物でもあります。毎日、5人の奉行所役人の警護のもと、馬で各地を訪問し詳細な記述と共に自らの印象を書き残しています。

善福寺

 横浜港に着いた時のことです。二人の官吏がにこやかに近づき、中を吟味するから荷物を開けるように指示しました。荷物を解くのは大仕事であり、出来れば免除して貰いたいと思い、二人に手持ちのお金を渡そうとした所、「ワタシは日本男児」と言い、これを拒みました。これが上陸時の最初のエピソードです。

 滞在中の最大の出来事は14代将軍徳川家茂の第2次長州征伐の行列を目撃できたことです。本来は、外国人は見ることが禁じられていましたが、イギリス領事の便宜によって横浜から4マイルのあたりの東海道筋の木立に陣取って見ることが出来ました。この時、間違って行列の手前を横断した農民に怒った下士官が、彼を切り捨てるよう、部下の一人に命じました。部下が命令に従うのをためらうと、激怒した下士官はその部下の脳天を割り、つぎに農民を殺しました。まさにその時、さらに高位の上級士官が現われ、彼は事の次第を確かめるや、この下士官を気が狂っていると決めつけ、銃剣で一突きするよう命じました。この命令はすぐさま実行に移されました。三つの死体は街道に打ち捨てられ、1,700人の行列は気にもとめず、そのまま通過して行きました。翌朝、シュリーマンは切り捨てられた3人の死体を見ることになります。このように緊迫した世情と6月という梅雨時期にも関わらず、江戸庶民の生活を見て歩き、さらには養蚕業が盛んな八王子まで足を延ばしています。いくつか彼の見聞した話を書いてみます。

・日本のお寺の風情と僧侶の親切さと清潔さを大いに気に入ります。
大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾り立てた中国の寺は極めて不潔で、しかも退廃的だったから嫌悪感しか感じなかったが、日本の寺々は簡素な風情であるが、秩序が息づき、手入れの跡も窺われ、聖域を訪れる喜びを覚えた。老僧も小坊主も親切さと清潔さが際立っていて、無礼、尊大、下劣で汚らしい中国の坊主たちとは好対照をなしていると書いています。

・下町の店を見て歩き本の安さと玩具の精巧さに驚きます。
沢山の下駄屋、傘屋、提灯屋,孔孟の聖典を売っている本屋の前を通った。本は安価でどんな貧乏人でも買えるほどである。玩具は仕上げが完璧でありニュルンベルグやパリの玩具製造業者はとても太刀打ちできない。

・カロリーナ米(イタリア米)よりも日本の米の方がおいしい。
パンではなく米が主食であることを知ります。その品質がカロリーナ米(イタリア米)よりも良いと褒め、煮魚や刺身をおかずに食べました。

・浅草寺参拝の後、近くの猿若町の芝居小屋に行きます。
イギリス大使のオールコックが書いた「大君の都」には大阪での観劇の個所があり、江戸では観劇は庶民のもので下品とされ見ることが出来なかったと書かれています。シュリーマンは近辺のすべての小屋を見て回り、特に独楽の曲芸を称賛しています。

・日本の公衆浴場は「なんと清らかな素朴さだろう。」と讃えています。
全裸の数十人の男女が、誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にも触れることなく、衣服を身に着けていないことに何の恥じらいも感じていないと、その清らかな素朴さを高く評価しています。

・遊女の肖像画が本堂の中に飾られているのに驚きます。
浅草のお寺で遊女の像が掲げられ、人々に尊敬されていることに驚きます。花魁の絵姿と仏像が並んで飾られている様子を見てしばらく立ち尽くしてしまいます。「それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた。長い間、娼婦を神格化した絵の前に唖然と立ちすくんだ。」と表現しています。遊女は著名な浮世絵師も描く江戸庶民の文化の一つであることをシュリーマンは大きなカルチュアショックとしてポジティブに受け止めて、滞在中に何度も浅草を訪ねています。

・間違いなく日本は世界で一番衛生的と断言しています。
シューマンの凄いところは、公衆浴場で男女が一緒に入浴しているのを見てヨーロッパとは違う礼儀の考えがあるのだと評価する観察眼を持つ所です。「どんなに貧しい人でも、日に一度は、街の至る所にある公衆浴場に通っているのを見て、ヨーロッパ的観念とは異なっているが、人は自国の習慣に従って生きている限り、間違った行為をしていると感じないものだ。そこでは淫らな意識など生まれようがない。すべてのものが男女混浴を容認しており、恥ずかしいことでも、いけない事でもないのである。ある国の道徳性を他の国のそれと比べてうんぬんすることは極めて難しい。」と型にはめて物事を見ることを戒めています。ロシア籍もアメリカ籍も持ち、19か国語に精通しているシュリーマンの卓見と言えます。お寺に遊女の肖像画が飾られることも、混浴の習慣もあるがままに偏見なくシューマンは受け入れています。

 シュリーマンのトロイアの発掘は世界を驚かす大発見でした。その歴史的価値は覆ることはありませんが、現在の研究では批判的な見解をいくつか見ることが出来ます。
 先ず、「幼少時代からの夢の実現」はサクセスストーリーにあと付けされた作り話であること、次いでトロイアの遺跡を最初に見極めたのはイギリス人外交官であること、そして発掘手法が考古学的に未熟な素人仕事でありその後の学者の作業に困難を与えたことなどが指摘されています。
 そもそもシュリーマンの発掘した場所がトロイアの遺跡の場所かどうか疑わしいという意見もあります。トロイアの遺跡発掘後、シュリーマンはアテネ市内のほぼ中央部にポンペイの壁画を取り入れた内装など美しく豪華で独創的な邸宅を作り、そこを起点としてトロイアの発掘だけでなくミケーネなどのエーゲ文明の発掘を続けました。
 そして、1890年に旅行先のナポリの路上で急死し、自宅のあったアテネの第一墓地に葬られました。享年68歳でした。彼の邸宅は、現在は貨幣博物館として開放され往時を偲ぶことが出来ます。それ以前の1881年にはトロイアで発掘した黄金をドイツ国民に寄贈してベルリンの名誉市民になりました。そして彼が発掘した遺跡は1998年に「トロイの考古遺跡」としてユネスコの世界遺産に登録されました。偏見なくあるがままに物事を受け入れ、古代と対話しながら発掘を続けたスーパー国際人でした。<了>

【明治初期に来日した外国人が見た日本人】

福山 忠彦(常務理事 2020.4.16) 

新型コロナウィルス対応で世界中は大変な騒ぎです。中国は国家の強権でねじ伏せました。日本は国民の「理性」と「公徳心」に訴えると同時に、クラスターという表現を使い感染経路を粘り強く追い、ピンポイントで感染者を割り出し、その人たちにPCR検査を行う方式をとりました。非常事態宣言が出されましたが、その内容は諸外国のロックダウンと異なり罰金などの罰則はなく各人の良識に訴えるものです。外出禁止も社会生活の中で守るべき規範として扱われています。他国では違反者に罰則が加えられますが、日本は要請または指示であり、罰則はありません。そしてこのことは多くの日本人に受容されています。

 これは日本が鎖国から開国に至って間もない、日本がまだ「西洋化されていない」日本独自の文明が生きている証左の一つではないかと思い、このことをもっとよく知ろうと思った時に、目にしたものは150年ほど前にやって来た欧米人の書いた文章でした。150名ほどの欧米人が日本人の生活様式や習性のことを書いています。私は当時の「農工商」という庶民の生活について記述したものに焦点を当てて読んでみました。

■著名な欧米人が見た日本の庶民たち
 先ずはアメリカの初代総領事のタウンゼント・ハリスです。彼は下田近郊の漁村を訪れて「小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に付き物の不潔さが少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている。」、「5マイルばかり散歩をした。ここの田園は美しい。出来る限りの場所が全部畑になっていてよく開墾されている。これらの段畑を作る労働はけだし驚くべきものである。幾世代にも渡って営々と築き上げた共同作業に感慨を覚える。」、「人々は楽しく暮らしており、子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えている。」、「一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのだろうかどうか、疑わしくなる。」と日本及び日本人をベタ褒めしています。

 次いで初代イギリス公使を務めたオールコックは彼の名著「大君の都」で熱海滞在を基に「これほど簡素な生活なのに満足している住民は初めて見た。農漁業を営む1,400人の住民中、よその土地に移り住んだものは20人といないそうだ。村民たちは自分達の風習に従って幸せな生活を営んでいる。手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。」、「自分の農地を整然と保つことにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはいない。」、「人々は健康で働き者で、そして温和である。贅沢を求めずごく僅かなもので生活していて、自己顕示欲に基づく競争が存在していない。」と協調の精神と勤勉な日々を過ごす日本の農民を讃えています。日本との通商条約締結の任を帯びて来日したイタリアの海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨンは「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は他にない。貧困が暗く悲惨な形であらわになることはない。人々は親切で、進んで人を助けている。」と記しています。

 江戸時代に松前藩に幽閉されたロシア軍人のゴロヴニンは「日本人はごく幼い頃から読み書き、法制、国史、地理などを教えられ、大きくなると武術を学ぶ。しかし一番大事なことは幼年時代から忍耐、質素、礼儀を巧みに教え込まれていることである。」と「日本幽囚記」に書いています。横浜―東京間の列車の中から大森貝塚を発見したエドワード・モース博士は「善徳や品性を生まれながらに持っている。恵まれた階級の人ばかりでなく、最も貧しい人も持っている。挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりは生まれながらのものである」、「日本の大工はアメリカの大工より技術的に上である。創意工夫にたけた能力を持っている。」と日本人の思いやりと創意工夫に賛辞を送っています。そのほか明治初期に来日した欧米人は「物乞いする人に対して決してひどい言葉が言われないことは、見ていてよいものです。」、「横浜を外れたみすぼらしい農家が素敵な生垣に囲まれていた。自然と親和する暮らしぶりは見事である。」彼らは異口同音に日本の田舎の人が示した清潔で、礼節を重んじ、子供をかわいがり、そして器用であることを褒めています。

 理解しがたいこととしては男女が全裸になって同じ浴槽に入ること、これについてハリスは「何事にも素晴らしい日本人が混浴という品の悪いことを何故するのか判断に苦しむ。」と嘆いています。また、女性のお歯黒と顔を真っ白に塗る厚化粧、時折見せる「発する言葉と胸の内が異なる」いわゆる本音と建前が異なることを指摘した記述もあります。意外なものとして和食の評判がよくありません、少ない食事量と肉や牛乳が供されない事に不満が沢山あったようです。彼らはいくつもの国をよく知っています。その人たちからこのように数多く褒められているので額面通りに受け止めてよいと思います。

■イギリスの女性探検家イザベラ・バードが見た日本の田舎
 これまでの欧米人の論評は東京、横浜、長崎といういわば開けたところに滞在した人々のものです。驚くことに1878年(明治11年)にイギリス人女性が北日本各地を、日本人通訳一人を従えて旅行しています。西郷隆盛の西南戦争が終わった翌年です。東京を起点として日光、会津若松、新潟、山形、秋田、青森、蝦夷・箱館の大冒険をしています。決して豊かでない日本の地方に住む人たちの生活実態を日記風に書いています。それを分厚い封書にして、行く先々でイギリスに住む彼女の妹あてに送り、それを「日本奥地紀行」(Unbeaten Tracks in Japan)として旅の2年後にイギリスで発行しています。序文に「この私の全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった。」と書き、人跡未踏の地の旅日記に自信をのぞかせています。明治初期の日本の地方を知る、しかも欧米人から見た紀行文は地方に住む人々の生活を知る大変興味ある本です。

 イザベラ・バードは1831年(天保2年)にイギリスのヨークシャーで聖職者の家に二人姉妹の長女として生まれました。世界旅行に興味を持ち日本滞在の経験のある幾人かの人から助言を受け日本旅行を実現させました。それは彼女が46歳の時でした。通訳となる20歳の伊藤鶴吉を伴っての旅でした。伊藤は神奈川県三浦郡出身で、海外へ行ったことはありませんでした。英語を学んだ何人かの応募者の中からバードは彼の英語が彼女にとって最も理解できたと言う事で選びました。「身長は150センチ足らず、がに股ながら、均整の取れた頑丈な体躯の持ち主で、顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と、細い眼をしている」と伊藤の外観を書いています。「頭がよく、旅支度は指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力をいかんなく発揮した」と褒めています。また、伊藤は日本への愛国心が強く外国のものは何でも劣ると思っていると少し不満げに付け加えています。伊藤という通訳者なしではバードの旅は成し得なかったかもしれないし、その内容も乏しいものになったと思われます。バードの通訳を無事果たした後、本格的に通訳業をはじめ25歳の時に世界一周をしています。「横浜通訳協志会」の会長を務め「通弁の元勲」と評され享年54歳で亡くなりました。

 バードは1878年(明治11年)6月10日に英国公使館を出発して9月14日の箱館までおよそ100日間をかけて旅しています。帰途は函館から横浜まで船旅でした。彼女の声をいくつか拾ってみます。
「日本の奥地や蝦夷を旅したが、まったく安全でしかも心配もしなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも、無作法な目にも、あわず安全に旅行できる国はないと信じている。」「浮浪者が一人もいないこと、通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、貧相な人々には、それぞれ自分の仕事というものがあることです。」「これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。抱っこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対しても同様に可愛がり、世話を焼きます。」「醜い、みすぼらしい、まずい、わびしい、下劣な衣服、人が良くて親切ながらも、とにかく酷い私の車夫、人々は言葉にならないほど汚くて不潔、神社のお祭りで奏でられる不協和音と耳障りな響きの音楽、これらは苦痛である。」「宿泊設備は蚤や蚊それに臭気を除けば、驚くほど素晴らしく世界中のどの国に行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないでしょう。」
 辛辣な表現も多い旅日記ですが明治初期のまだ不安定な国の、しかも東北地方の農村部は日本の中でも貧しく粗末な食物、悪臭、蚤と蚊の襲撃、裸同然の衣服は、インテリ西洋人の価値観に合致するはずもないですが、それでも子供たちの礼儀や馬子の仕事ぶり、物乞いのいない社会、治安の良さなど観察眼がよく行き届いています。バードはその後も世界各地への旅行を続け、「イギリス王立地理学協会」の女性初の特別会員に迎えられ、ヴィクトリア女王にも謁見しています。1901年のモロッコ旅行の3年後にイギリスのエディンバラで、享年72歳で亡くなりました。

■日本の隅々にいきわたるこの生活特性を守り続けましょう
 バードが旅した時代や地方は未開の土地でしたが、彼女はそこでの人々の礼儀正しさ、心優しさ、勤勉さ、治安の良さ、子供を大切にする暮らしぶりに心から感心しています。バードはこのことに気づく素晴らしい感性を持つ人でした。それにしても日本語が皆目わからない46歳のイギリス女性が、明治初期に日本の田舎を旅行した勇気に頭が下がります。人々の生き方、心情には都会と田舎ではほとんど差がありません。むしろ当時の日本人と今の日本人との方が、差が大きいかもしれません。ハリスが書いたように「私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々を本当に幸福にするのだろうかどうか、疑わしくなる。」という記述を思い出します。150年後の今は何もかも素晴らしく世界の先進国ですが、これらはすべて過去の人たちが築き上げてきた賜物です。今、日本は新型コロナウィルスで苦渋の生活をしています。感染源を突き止めてそこからの派生者群をクラスターと呼び、その人たちに検査や治療を行う効率的な方法を取り、成功するかに見えましたが対象数が増え、方向転換を余儀なくされています。緊急事態宣言がなされましたが諸外国に比べて強制力が劣ります。また、国や地方の行政府の対策も人々の機運が盛り上がってからの遅れ気味の対応です。私は人々の自覚や自制心に依存する日本のやり方は古くからの対応方針と似ていると理解しています。高い民力を持つ国です。この精神を生かした日本がいち早く新型コロナウィルスに打ち勝って世界の国々の良い手本になることを願っています。そして来年に延びた東京オリンピック・パラリンピックを迎えたいと思っています。<了>   

 

【東京空襲の記憶

伊賀山欣也(国際外交・安全保障問題分科会委員 2020.02.09)

 夜空に空襲のサイレンが鳴り響いた。
座敷で父母と寝ていた4歳の私は揺り起こされ、母に手を引かれて庭の防空壕に跳び込んだ。
 程なく上空に米軍の新鋭大型爆撃機B29の大編隊が飛来し、それを探照灯の光芒がむなしく追いかけるのが見えた。
 その防空壕は、当時は銀行勤めであった父が日曜日ごとに借家の庭に深さ1メートルほどの穴を掘り戸板や畳をかぶせただけの心細いもので、兄たち二人と合わせた家族5人には狭すぎ、爆弾が一つでも落ちれば吹き飛びそうな代物ながらそこにもぐると安心感があった。しかし、真夜中のサイレン音と大型機の編隊の爆音は幼い私を怖がらせた。

 当時の我家は中央線沿線の吉祥寺近くにあった。幸い家族は無事に終戦を迎えたが、戦時記録を見ると、昭和19年秋以降米軍は東京下町の焼夷弾爆撃に加えて、中央線のレールに沿って飛来して吉祥寺の先の三鷹にあった中島飛行機の工場の爆撃を始めた。この工場は当時の日本の最新型戦闘機のエンジンを製造する重要な軍需工場であったため、米軍から前後10回以上の爆撃を受け、200余名の殉職者と500名を超える負傷者を出したことを知った。

 私の戦争体験は夜中のサイレン音、爆撃機の轟音、探照灯の光、そして小さな防空壕だけにすぎないが、焼夷弾の絨毯爆撃による火の海の中に幼児も含めて多数の同胞がいたのだ。 
 そして、現在の中東動乱の戦火の中で必死に生き延びるシリアやイラクの市民達の様子を紹介するTV報道や映画を観る度に、このささやかな戦時体験が記憶に甦る。 
 今の世においても世界の片隅で絶えざる空襲や砲撃の下で怯える幼児達がいることに想いを致さずにはいられない。<了>