日本よ、何処へ 第8回(その・1)
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2025年1月17日
年が改まり令和も7年目に入った。今年は大きな自然災害、事故・事件のニュースもなく比較的穏やかな年初となったように感じるが、皆々様お住いの地域は如何でしたでしょうか。何はともあれお目出度い年明けを言祝ぎたい。そして、今年が何事もなく平穏に過ぎて且つ日本の社会が再びかつてのような希望の持てる、明るい輝きを放つ未来への第一歩となる年であって欲しいと切に心より願う次第。今年の干支は「巳」、「蛇口」というようにこれまでとは異なる何か変化が出てくるのかどうか。
海の向こうでは大統領就任式を目前にした人物が、退任する大統領以上の世界的影響力をもってその発言が物議を醸している。デンマーク自治領の世界最大の島、日本の国土面積の約6倍の「グリーンランド」を購入するとか、カナダは米国の51番目の州になるべきだとか、「関税を引き上げる」などなど冗談か本気かさておき、中露は内心腰を抜かすほど驚いたのでは。反対にこの人物の政策は「ディール(取引)」だから、プーチンや習近平は組み易しと考えているのではとの識者の解説あって。いやはや日本にとって如何なることになるのやら、厳しい要求を突きつけてくるやも知れず。この人物と「親友」の政治家であったとも言われる安倍元首相のいない日本はどういうことになるのやら。安倍元首相の政策を批判的に発言していた現首相はどう対応するのか、また、現首相と同じ方向の外相をかの国はどのように受け止めるか?この論稿がアップされる頃には就任式が行われ、その就任式に外相は出席するようだが。いずれにしろ、嘘か誠か安倍元首相は「この人物だけはダメだ」と現首相のことを再登板する大統領に語っていたとか。真偽のほどはわからないが。ただ現首相は就任前の、このお騒がせ人物に会談を求めたものの、にべもなく断られ、あろうことかこの人物は安倍元首相夫人を米国に招いて会談、その様子が大きく報道された。つまり、日本の現首相は次期米国大統領に信頼されていないし敬遠されているのだ。この人物を首相に選択した、自民党国会議員は如何お考えか話を聞いてみたい気はするが皆様は?
また前置きが長くなって申し訳ない。前回に続いて、江戸期の飢饉を考えてみたい。これまでも江戸期について考察してきたが、どうして江戸期に拘るのかもちろん理由はある。この理由についてはいずれ詳しく述べるつもりではいるが、ここでちょっとだけ触れておくと、「江戸期」は長い日本の歴史の中でも特別であるように感じるからであり、同時期の欧米諸国の歩みとは正反対の歴史を紡いできたのではと考えているからで、この点はじっくりゆっくり腰を据えて掘り下げてみたいと思っている。
では前回の「享保の大飢饉」の後、約50年後に発生した「天明の大飢饉」について眺めてみたい。江戸三大飢饉の2番目で且つ最大の被災者が発生した飢饉といわれている。1782~1788までの約7年間も続いた、当時の国民を襲った未曾有の、また被害状況も最も深刻であった飢饉である。発生した当時の将軍は10代家治、この家治に重用された人物があの有名な田沼意次である。皆様よくご存知の「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」で有名な、また「賄賂政治」でも歴史に名を残しているあの田沼意次である。彼の父親はもともと紀州藩の足軽で田沼意行(もとゆき)といい、徳川吉宗(紀州藩)が8代将軍に就くことで江戸に入り幕臣となった経緯から、意次は15歳で小姓になって仕え、次第に出世してやがて家治の側用人、次いで老中にまでなって実権を握り、「田沼時代」(1767~1786)を実現させた人物である。では歴史上よく言われるように、意次の政治は腐敗に塗れていたのかそれとも秀れた人物であったのか評価は様々に分かれるようで、彼の後に老中に就任したあの松平定信とはまったく政治理念の異なる政治を推進したことは事実のようだ。とここで、歴史の裏話を紹介すると、意次がどうしてこのような異例の出世街道を「驀進して幕臣」最高の地位にまで登り詰め絶大な権力を振るえたのか、それは、9代家重が10代家治に遺言を残していたという話があるのだ。「意次はまたうと(またうど)=全人(正直な人・律義者)だから目をかけて用いよ」。嘘か誠かわからないが、意次の大出世の裏にこういう話があるのも事実だ。
次に、少しだけ彼の政治を眺めると、吉宗の「享保の改革」からおよそ半世紀、停滞していた経済を活性化させるために、産業経済を重視、さらに貨幣経済を推進して経済発展を企図、今でいう積極財政政策を選択したように考える。というのも吉宗の「享保の改革」が幕府政治の無駄を省き、奢侈に流れている風潮を改めようとして、例えば「大奥」の改革を断行したりといった、いわば緊縮財政政策を採用して幕府財政再建策を採ったのと対照的である。意次は、当時発達してきていた商業を重視、利益を上げている商人からも税収を得るという、つまり、幕府財政を農民からの年貢だけに依存しない、ある意味、農民保護の政策を推進した人物と考えられる。つまり、「農本主義」から「重商主義」への大転換をはかった為政者であったようにも見受けられる。そして、農業の商業化を認めるという、実に柔軟な発想もできる人物ではなかったか。そういう意味では、現代経済の先駆けといえる経済政策をすすめた人物ではないかと私は考えている。つまり、それまでの軸足を反対の軸足に変えるという、発想の大転換であると評価できるのだ。ただ、それまでの常識を覆す側面があったため、その本質を理解できない人々からは評価されず、むしろ、「悪の商人から袖下=賄賂」をとって私腹を肥す悪人ともみなされたのではないか?そういう面はあったと思うが、評価できる部分も多くあるのではないかとも思える。もちろん、行き過ぎもあっただろうとも考える。重商主義政策を過度にすすめるあまり、「豪商」たちを優遇して庶民の生活を顧みないというような傾向は強かったのではないかとも思う。現在で言えば、自民党が日本最大の経済団体である「日本経団連」の意向を「政治資金の金蔓であるが故に」過度に忖度する政治になっているのではとの批判は常に付きまとうが、同様の傾向はあったから「賄賂政治」の烙印を押されたのでは、とこのようにも思う。実際にそのような事実はあったのだろう。もう一つ意次の政治を肯定的であれ否定的であれ立場に関わらず共通に強調される点は、この時代は「江戸封建制度の転換点」であったということだ。幕藩体制が170年以上続けば様々な矛盾や弊害があちこちに噴き出していたのも事実と考えられる。つまり、発想の転換をしなければ必ずや行き詰まる可能が「大」だったが故の政策だったのでは。このように書くと「お前は何も解っていない」と批判されるかも。
いつの時代も相反する政策が対立を生み、それが原因で国内経済・政治が停滞混乱するといった現象は常に起こり得るが、当時も例外ではない。実は今の日本も相反する政策が対立して、政治が前に進まないという、実に困った状況にある。それは、例えば経済問題に限定していえば、「財政規律派(財政再建派)」と「積極財政派」の対立で、前者は「○○真理教」と揶揄されているあの中央官庁で、「官庁の中の官庁」といわれる役所である。総理大臣といえどもこの官庁の意向には逆らえないとも言われる役所であり、経済に疎い門外漢の私にはよく解らない。「昔陸軍、今○○省」という言葉があるらしい。ただ、素人ながらもし経済が停滞しているとすればきっとそれを阻害している、招いている原因が有るはずであり、その「枷」をはずす必要はあろうと思われるが。つまり、両足を鉢巻で縛っておいて早く「走れ」といわれてもそんな無茶なということだろう。これは経済だけでなく、あらゆることにおいて同様のことが惹起していると思う。少し、余談が長くなった。本題に戻ろう。
「天明の飢饉」が発生した最大の原因は、異常低温だったと言われている。当然のことながら米を始めとする農作物の収穫は絶望的なまでに減少し、多くの国民が直ぐ様飢えに苦しむことになったのである。では、どの程度の異常低温だったのか、ちょっと調べてみたら、春になっても気温が上昇せず、また、冷たい雨が続き、夏近くになっても、天候は回復しなかったようである。夏になっても気温が低いままなので、最近の我が国の夏の暑さが嘘のようなことが起きたようだ。夏に入っても寒いので、綿入れ(今のダウンジャケットとも言える)が手放せなかったという、耳を疑うような記録が残っているのである。
さらにこのような異常気象に追い打ちをかけるような出来事が起こったという。それは、現在でも活火山としてよく知られる、長野県と群馬県境にある円錐形の火山・「浅間山」が天明3(1783)年7月に大噴火、大量の溶岩流が近隣の村々を呑み込み、さらに大量の火山灰が近隣地域に降り注いだようである。また、津軽富士として知られる、青森県西部の「岩木山」が同じく天明3年3月、大噴火し溶岩と火山灰が降り注ぎ、異常気象に拍車をかけたという。このような、自然界の出来事は、特に関東・東北に壊滅的な損害・打撃を与え、かつてない惨状をもたらしたという。過去2回の飢饉(寛永飢饉・享保の飢饉)は主として近畿以西の西日本を襲ったが、この飢饉は東日本に襲い掛かったわけで、当時の東日本諸藩の被害状況は悲惨を通り越して地獄といっても過言ではないような状況に陥ったという。実は、このような自然界の「異常」は日本だけでなく、遠く離れた欧州でも発生していたようである。どういうことかと言えば、北大西洋に浮かぶ島国のアイスランド、首都はご存知レイキャビク、温泉で有名である。北辺はほぼ北極圏に近い。このアイスランドは火山国としても有名であるが、1783年にこのアイスランドで多くの火山群(約100の火口)が大規模噴火をおこし、火山灰がどうも地球全体の大気圏に滞留し世界の異常気象、異常低温を起こしたと言われている。つまり、日本の異常低温もアイスランドの火山爆発に伴う大量の火山灰の影響をもろに被ったということだろう。また、二酸化硫黄をはじめとする有毒ガスが霧となってヨーロッパ各国のみならず北半球に日傘効果となって異常低温を引き起こし、イギリスでは多くの中毒死者が発生、また数年に亘ってヨーロッパも冷害で食料不足が発生したようである。つまり、日本だけの災害ではなかったようであるが。
この大飢饉はどのくらい悲惨だったのかを物語る話がある。東北の、例えば、弘前藩(通称は津軽藩)内では、当時の人口24万人のうち8万人が餓死、4万人が逃散(農民が領主の要求に反発して他領に逃げること)、人口が半減したという。そして、忘れてならないのは、上述したような地球規模での自然災害に加えて、東北・北海道では「やませ」という、夏に吹く冷たい風が人々を長く苦しめてきた。だから、アイスランドの火山群の噴火・浅間山・岩木山の噴火・やませ・異常低温さらに長期間というように悪条件がいくつにも重なった大災害とでも言えよう。
このように、関東・東北諸藩ではとにかく食料物資が欠乏し、資料によると飢えに苦しんだ民衆は、雑草・農耕用の牛馬・犬・猫までも、最悪の場合、人肉までもという、記述があるようで、当時の困窮の様子が伺い知れるのだ。当然のことだが、食べ物に苦しむ人々は生きるがために行動に打って出るようになる。つまり、百姓一揆・打毀しが頻発するようになる。前回、「享保の飢饉」の際、将軍のお膝元の江戸で米問屋の高間伝兵衛が打毀しにあったと述べたが、今回は、それ以上の民衆行動が起こったようである。ただし、断っておきたいのは、すべての百姓一揆・打毀しが過激な「暴動」ではなく、ある意味では秩序だった民衆行動であったとの資料もあったくらいで、例えば、「百姓一揆」は農民の証である蓑笠・鍬・鎌といった農具を持って領主や村役人と年貢の減免を掛け合う、打毀しの場合は町人が米問屋や商人に米価の引き下げを強く求めるといった、およそ「暴動」とは言えない例も多くあったようである。つまり、日本刀や槍で人を切ったり殺害したり、放火などの、いわゆる「暴動」などはほとんどなかったのではないかと思う。とはいえ、関東・東北諸藩は言うに及ばず、日本全体が不穏な空気に包まれたのは間違いないところだろう。
ある資料によると、「天明の飢饉」の前後約9年間で、都市騒擾が激化し107件発生したと。其の内、69件が打毀し。残りのほとんども打毀しの未遂であったようである。背景はいうまでもなく、「米価」の高騰でなく「暴騰」だったようで、打毀しというより、「米騒動」といったほうが解り易いかも知れない。1987年の5月、江戸・京都・大坂・長崎・岩槻(現さいたま市)をはじめ、九州~関東までの諸都市(城下町・港町・宿場町・門前町など)は異常な空気に包まれたようで、飢えた民衆の大量流入による治安の悪化をはじめとした小さな事件は後を絶たなかったみたいである。しかし、いわゆる「暴動」は起きなかったと。ここに、今でも日本国民の「凄さ」が垣間見られるのでは。以前、この稿でちょっと触れたが、「東日本大震災」の折、家や家族を失って絶望的な状況にもかかわらず、寒さに震えながらも、おにぎり一つを貰うのに秩序正しく整然と並んでいる被災民の映像を視聴した外国人は、「慄然」・「驚嘆」の声をあげたとか言われるが、決してフェイクニュースではないと思う。つまり、江戸の昔より日本民族としての民族性が培われていたのではないかと推測する。何かのはずみでこの駄文を読まれた方の感想などお聞きしてみたい。
この「天明の飢饉」は自然の大災害ではあったが、「人災」の側面も無きにしもあらずというか、相当に大きかったとも言えるのではないか。というのは、この当時、貨幣経済が徐々に全国的に浸透していて、当時の諸藩は藩政策を実施するためにどのように藩財政を賄うか、が最重要課題だったのである。そのような中、当時、大名を最も悩ましていたことのひとつは「参勤交代」をどのように無事に乗り切るか、であった。ご存知の如く「武家諸法度」は家康が元和元年(1615)、「大坂夏の陣」で豊臣氏を滅ぼした直後、諸大名を伏見城(京都)に集め発布したものであるから『元和令』ともいわれるものであり、内容はご存知のとおりである。これに違反した大名は幕府(将軍)より厳罰が下されるわけで、最悪の場合は「改易」などをチラつかせていたのがこの制度である。
とここら辺で、今回はこれ以上述べると相当に長くなるので擱筆する事にしたい。次回はこの続きと、江戸時代末期に近い「天保の飢饉」を取り上げる予定。ではまた。
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日本よ、何処へ 第7回
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年12月18日
早いものでこの論考も7回目(今年5月第1回で実質は8回目)を数えることに。そして、もう師走も既に半分を過ぎ今年も残り少なくなったことを実感する日々。前回は主としてタウンゼント・ハリスの「衣食住に関するかぎり完璧な生存システム」という言葉と「江戸4大飢饉」の最初、寛永大飢饉及びその遠因となった「島原の乱」を考察した。私の研究不足で曖昧な点が少なからずあったのではと今になって反省をしている。が大局的観点から見ればとんでもない歴史的判断はしていないと思うが、厳しい批評をいただければ有り難き幸せ。
さて今回は脱線しないように、前回の予定に従い、「江戸4大飢饉」の残り3つの飢饉を取り上げ、さらに紙数が許せば幕末に来日、悲劇の生涯を閉じたハリスの通訳(当時は南蛮通詞といった)ヒュースケンが残した言葉を考察したいが、また長すぎるとお叱りを受けることになるかも。
では本題に入ることにして、「江戸4大飢饉」とはいうが、実は寛永大飢饉は入れずに、その後に発生した3つの飢饉を「江戸3大飢饉」と呼ばれることの方が多いようである。その理由は、寛永大飢饉よりも被害及び影響がずっと大きく、江戸幕府の屋台骨を揺るがしかねない、対応を誤れば幕藩体制そのものが瓦解する可能性もあったからである。といって、寛永大飢饉が小さかったというわけではもちろんない。
「江戸三大飢饉」の最初である「享保の大飢饉」について考察してみたい。この飢饉は8代将軍吉宗(暴れん坊将軍の時代・在位1716~45)の時代に発生した、主として近畿以西の西日本を襲った大飢饉(寛永の飢饉も主として西日本が中心であった)。当時吉宗48歳、将軍になって16年目の時である。この時代は江戸時代の中期にあたり、この頃になると封建制度の矛盾が次々と顕現化、幕藩政治の機能が金属疲労をおこしかけていて、抜本的な改革の必要性が叫ばれ始めていた時代でもある。吉宗はこのような時代背景を背負っていたのである。したがって、吉宗はこのような時代の危機を乗り切るための施策を次々と実施しようと考えていた。新田開発・サツマイモの栽培の奨励を中心とした農村改革、通貨の統一や株仲間の公認、高利貸しへの返済に苦しみ貧窮状態にあった旗本や御家人の救済などの経済対策、そして、幕府内部においては能力本位の人材登用など世襲制の弊害を削減して硬直した幕府政治の矛盾をなくそうとしていた。そして、吉宗といえば、「目安箱」である。享保6年(1721)8月に江戸城竜ノ口評定所前に設置して、民意聴取のための施設とした。つまりこれは、民主主義の一歩手前の施策でもあった。目安というのは訴状のことで、この訴状をきっきっかけに小石川に養生所が設置され、江戸市中防火方針が統一されたようである。諸藩の中にもこの目安箱を設置したところがあったようで、幕府・諸藩の危機意識の表れでもあり、意識改革の表れでもあった。
さらに、吉宗の時代には刑事裁判法規である「公事方御定書」を作成させている。というよりこの法規の作成には吉宗自身が深く関わったのではと考えられている。というのは、吉宗は法制に深く興味を有していたようで、享保の時代に入ると経済活動の著しい発展に伴い、新たな訴訟沙汰が多くなって従来の法制では対応できなくなったことを吉宗自身が痛感した節がある。時代の要請に応える形での法整備であり、「憲法」の神学論争を莫迦の一つ覚えみたいに延々と繰り返しているどこかの国の硬直した救いようのない莫迦な「政治屋」どもと異なり、実に柔軟な政治判断ができる人物だったのではと推測できる。ともあれ、家康が1603年に江戸幕府を開いて百数十年の歳月は社会を、人々を、価値観を大きく変えたのではと考える。
このような困難な社会風潮のなかで発生したのが1732~33にかけての「享保の大飢饉」であった。前述したように主として近畿以西の西日本が蝗害の大被害をうけた飢饉。蝗とは一般に稲の害虫の総称であるが、このときはウンカの異常増殖によるものであったようで、農村ではこれをきっかけに「鯨油」を田んぼに撒いてウンカを叩き落とす対策が全国的に広がったようである。
幕府への各藩の損耗届けによると、西日本のなかでもとりわけ被害のひどかったのが、現在の愛媛県・福岡県・佐賀県、そして瀬戸内沿岸地方の被害が甚大であったと資料にのこっているようである。幕府報告では飢人数が264万人、餓死者が1万2千人として記録されているようだが、餓死者の数字は各藩の稀少報告だったようで実質はこの数倍だったのではとの研究もあるようではっきりしない。とにかく、寛永の飢饉を上回る大飢饉であったことは間違いないようである。実をいうと、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』によると餓死者は97万人と記載されているようである。このような大飢饉が発生した原因とはなにか、様々に調べてみたがよくわからない。ウンカや蝗の異常繁殖の原因は判明せず、ただこの飢饉発生の数年前から異常気象(長雨・冷温など)が続いていたという研究もあってはっきりしないのである。じつはこのような害虫の大量発生は過去の歴史的な出来事ではなくて、現在の問題でもある。というのは、2005年以降、ベトナムや中国で害虫が異常発生して大きな被害が続出し、深刻な農業問題になっているようで、その影響は遠く離れた日本にも押し寄せているようだ。日本海という広い海を、これら害虫は簡単に超えてやってくるようである。つまり、大きな偏西風に乗って軽い害虫はいともたやすく飛翔してやって来るのでは言われている。
どうしてこのような事態が起きているのか、様々な研究がなされているようだが、主原因ははっきりしていないようで、したがって決定打になるような対策は出来ずにいるのが現状だ。ただ、ベトナム・中国では害虫大量発生前と発生後の大きな違いは何かといえば、栽培品種を多収穫で美味なハイブリッド米に切り替えたようである。ハイブリッド米という品種と害虫との間にどのような因果関係があるのかわからないのが現状で、じつに悩ましい問題である。日本にとっても他人事ごとでは済ませられない、主食である米に関わる問題である。個人的な想像であるが、彼らもひょっとして、美味しいか美味しくないか、味がわかるのでは。人間にとって美味しいものは彼らにも美味しい、だから大繁殖するのではと。いや、申し訳ない。
少し内容が脇道に逸れてしまった。話を元に戻して、「享保の飢饉」の惨状に幕府はどのように対応し、どのような対策をとったかを簡単に見てみたい。幕府は西日本の大名救済措置として、大坂御蔵囲米・諸国城詰御用米など、凡そ25万石の米を緊急に被災藩に輸送し売却して効果をあげたようである。幕領のみならず外様領であっても緊急救済を進めたのは吉宗の政治の特徴であったようだが。
しかし、いくら幕府・吉宗が対策を進めても、一般庶民の不安心理を解決することは不可能であり、そのため幕府・諸藩が最も恐れていたことが将軍のお膝元で現実に起こってしまったのである。1733年(飢饉発生の翌年)1月、江戸市内の米価が異常に高騰したことが原因で、江戸幕府で最初の「打毀し」(うちこわし)が発生した(これから以後、食料高騰の度に打毀しは発生)。というのも、緊急用として、江戸に貯蓄されていた貯蔵米も大坂に廻米されたことで江戸市中の米価が高騰という背景があったのであり、この打毀し現象は幕府首脳にとって大きなショックであったようで、現在の政治にも共通することである。もう少し「打毀し」の背景を詳しく言えば、現在でも社会混乱の最大原因かもしれない「フェイクニュース」が絡んでいる。大衆不安心理とは実に恐ろしい可能性を秘めていることが今も昔も変わり無いのかもしれない。
実をいうと、当時、江戸の大きな米問屋を経営していた高間伝兵衛は、米価が異常に高騰(約通常の5倍に)するなか、吉宗に協力して備蓄米を大量に放出しようとしていたが、江戸市民は伝兵衛がさらに米価高騰を狙って売り惜しみをしている、さらに買い占めているとの噂が広まり(噂には必ずと言っていいほどに尾ひれがつく)、1700人が伝兵衛の米倉を襲った、これが世に言う「享保の打毀し」である。襲撃犯たちはこともあろうに、伝兵衛の家財道具や米俵を川に投げ捨てたにも拘わらず、伝兵衛は自身の米を放出して、米価・諸色(米を除いた物価)の安定に努力したようである。そもそも、享保に入って、米の大増産により米価は下落していたようであるが、デマ・というかフェイクというか「一人歩き」は恐ろしいものである。結論をいうと、幕府も努力したものの物価の安定は失敗したようである。やれやれ。
記憶に新しいが、今夏の始めあたりから安定していた「米価」が高騰したことがあった。「新米」が店頭に並ぶようになって落ち着きを取り戻したようだが。火事では無いが、一旦火がつくと容易なことでは消火できない。したがって、マスコミとくに大マスコミは報道内容には細心の注意を払って貰いたいが、先日も裏付けもとらずにフェイクを垂れ流したマスコミがあった。共同通信社は、自民党の生稲政務官が「靖国参拝」をしたとの報道を垂れ流し、いつもの如く中国・韓国が政務官を批判するという、あってはならないことを平気でしかも他社の記者の報道を「鵜呑み」にしてしまったということがあった。さすがに共同通信の社長がこの政務官に謝罪したということであった。国内も、世界も嘘・出鱈目のフェイクが飛び回る現状は嘆かわしい事態である。
ところで、今も昔も日本列島は災害列島といってもいいくらい自然災害が多発、このような緊急時に何をどのように対策を採るか最も難しい政治課題でもある。今年元日早々、能登半島を震度7の大地震が襲い、正月早々被害が甚大であった輪島市・珠洲市の市民の生活・救済は困難を極めたようで、輪島市の人口は年末調査で1割減というニュース新聞に掲載されていた。その後の政府の対応が後手後手に回っているという批判が今も燻り続けており、一歩謝ると政権そのものが吹っ飛びかねない危険性を内蔵している(現政権はこんな状況にもかかわらず総選挙を実施したが)。
話を享保の飢饉に戻すと、この飢饉の教訓は「人は容易に嘘(フェイク)に騙される」ということである。つまり、邪悪な集団が悪意をもって世論操作をすればどうなるのか?背筋が寒くなるような話ではある。とは言え、良い意味での、大きな収穫はあった。1つは、確かに「打毀し」はおこったが「暴動」にまで発展することはなかったようで、この点が日本の美点と言えまいか。よく外国では自然災害などをきっかけに「大暴動」のニュースを目にするが、阪神淡路大震災や東日本大震災などでも「暴動」など発生していない。外国では、暴動発生時に火をつけたり、民衆が商店などを壊して商品を我先にと運び出したりする映像を目にするが、日本ではない。ちょっとしたコソ泥程度はあるらしいが。でも安心はできない。近年の日本の治安も悪くなって凶悪な犯罪が頻発するようになってきたから。もうひとつの、最大の収穫は、飢饉にどのように備えるかで、実に大きなヒントを得たということ。どういうことかというと、瀬戸内沿岸の被害が甚大であったと先述したが、瀬戸内沿岸でも飢えに苦しむことがなかったところがあったらしい。大三島(現在の愛媛県今治市)では下見(あさみ)吉十郎という人がサツマイモの栽培を広めていたらしく、餓死者も出さずに伊予松山藩に余った米を献上したという記録が残っているらしい。
石見地方(現在の島根県中部)では、当時この地方の代官であった井戸正明(まさあきら)なる人物が救荒作物としてサツマイモの栽培を奨励していたようであり、失敗を繰り返しながらも成功して飢えを凌いだ記録があるらしい。その結果、正明は多くの領民の救済に成功し、その功績から「芋代官」として長く親しまれ尊敬を受けたということである。また、やはり厳しい飢えに苦しんだ九州では薩摩藩だけが餓死者を出さずに済んだらしい。
このようにサツマイモが飢饉に際して飢えを凌ぐ打って付けの作物として広くしられるようになったらしい。といっても、そこには様々な困難もあったようである。つまり、栽培に適した類のサツマイモの研究がやはり不可欠であったらしく、吉宗はその研究というか対策を江戸生まれの蘭学者であった青木昆陽に命じたようで、彼は粘り強く試行錯誤を繰り返して、痩せた土地でも育成できしかも栄養価の高く、長期保存が可能なサツマイモを実現したようである。実は、昆陽はサツマイモの効用を吉宗に説き、現在の小石川植物園でサツマイモの栽培研究をしてその結果、サツマイモは飢饉や災害時の非常食として全国的に奨励され、認知度は一気に広まったようである。参考ながら、青木昆陽は自著『蕃藷考』を著してサツマイモの普及に大きな役割を果たしたようである。
関東地方はもともと気候的に低温で最初はうまく栽培されなかったようであるが、成功した功績で「薩摩芋御用掛」という幕臣に取り立てられたようである。実は先述した、大三島の下見吉十郎は昆陽の弟子であったとかというが私にはよくわからない。先の大戦後の食糧難の時に、サツマイモは全国的に大いに栽培され、日本人の飢えを凌いだとよくいわれるが、興味のある人は研究されたら如何か。今日のような「飽食」の時代がいつまでも続くと限らないから、価値ある研究になるかも。大体、「明治維新」の影の功労者は実は「薩摩芋」と言われるぐらいであるから面白いかも。やってみようかな・・・・・・・。
ところで、サツマイモは薩摩で広く栽培されたからこの名があるが、別名は「琉球芋」とも読んだ。なぜこの名があるのか、実は沖縄(昔は琉球と呼ばれていた)の人で、野國總管なる人が中国から持ち帰り沖縄で広めたことを今回初めて知って、不勉強に恥じ入っている次第である。沖縄では、この「野國總管祭り」を開催しているようで、基地問題とは別に「沖縄」を、「沖縄」の歴史をもう少し関心をもって見つめる必要性がありそうだ。
最後に、このサツマイモの原産地に触れておきたい。南米が原産地であり、新大陸発見者のコロンブスが15世紀末欧州に持ち帰り、以後アジアに、沖縄に、そして1698年薩摩に伝わったようで、世界は広いようで狭いのかも。以上、今回はここら辺で。次回は、「天明・天保の飢饉」とヒュースケンの言葉を考察してみたい。では来る年が日本にとって良い年であることを願って筆を休めたい。
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日本よ、何処へ 第6回
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年11月09日
前々回(第4回)の終わりで次回は、カエサルとクレオパトラ、ローマ発展の背景、またクレオパトラと並び称される中国・唐の楊貴妃について書くと予定していたが、第5回はまたもや脱線して江戸時代末期の外国人の見た日本社会について簡単に述べてしまった。今回はというと、脱線ついでにもう少し日本の江戸時代と欧米の同時代を比較考察してみたい。というのもタウンゼント・ハリスや彼の通訳であったヒュースケンの日本観察に強く興味を惹かれるからである。さらに、当時の日本社会と欧米社会の違いを比較考察しすることによって今後の日本の進むべき道標を少しでも研究できるのではと考えるからである。
戦後の日本を何度も訪れ約10年間に亘って日本研究をした仏の構造主義哲学者レヴィ・ストロースの「悔しいが他に類型を見ない社会(江戸の段階で自己完結型の社会を築きあげた)」という日本観も底辺でハリスやヒュースケンの言葉と相通じるものがあるのではと個人的には推測する。もっと言うと、『文明の衝突』の著者サミュエル・ハンチントンが指摘した「日本文化は、日本民族だけの、他に共有する民族がいない」ということにも通じるのではと個人的に考えている。つまり、日本文化について掘り下げて考えることはこれからの日本の進むべき道の考察の一助に資するのではと思う。なぜなら文化を喪失した民族が繁栄した例はないし滅亡の運命を辿るのが常であり、文化を後世に伝えるためにもその本質を研究することはとても重要と考えるからである。したがって、カエサルやクレオパトラ、ローマ発展の背景、楊貴妃については後日述べることにしたいのでお許しあれ。
江戸時代末期の1856年に駐日総領事として来日した米国のタウンゼント・ハリス。彼は1862年に離日するまでの約6年間、当時の幕府及び諸藩の統治システムや経済システム、社会構造、文化、庶民の生活、風土・風俗、流行など当時の米国とはまったく異質な江戸社会の様子を悉に観察したことだろう。きっと、米国と日本の違いに面食らい腰を抜かさんばかりに驚いたことは想像に難くない。彼が来日した目的及びミッションについては前回紹介したので省く。ここで述べたいことは彼の日本社会についての言である。「衣食住に関する限り完璧にみえる生存システム」と述べている点である。彼は「完璧なシステム」とまで言い切っている。「パーフェクト」という言葉はそう簡単には使えないと思うが彼は使っているのである。つまり、少なくとも彼にとってはこの言葉を使うだけの理由があったということなのだろう。それが何なのかは知る由もないが、推測するに「無駄がない」「弊害がない」「機能的」「調和的」ということなのではと考える。違っているかも知れず。否、「当たらずと雖も遠からず」か。では「無駄がない」「弊害がない」「機能的」「調和的」とはどういう意味かを少しばかり考察してみたい。
兎に角、当時の日本社会・日本人が当時の彼をして「完璧」とまで言わしめている点である。私たちが忘れてならないのはこの言葉の対象が「生存システム」という点である。つまり、日本独自に、他国の手を借りずに、或いは他国を侵略したり征服をしたりせずにこのシステムが機能しているという当時の欧米諸国の常識とはまったく正反対の社会を築きあげている点にハリスは驚き「パーフェクト」という言葉を使っているのでは?
上述したように、「完璧な生存システム」を築くための絶対条件・絶対前提になることとは何か。それは、当時の日本社会が理想的なまでに安定していたということだろう。社会に不安要素がなかった、それだけ「平和」であったということだろう。このような条件がなかったとしたら、どのようなシステムであっても、築くことはできないだろうと考える。システムの構築に「妨害や邪魔」、あるいは「壁」になるような要素がなかった、あってもその「壁」を取り除くために人々が協力したというlことだろう。さらにもっと大切なことは、個人の利益よりも社会全体の利益を優先した社会が構築されていた、日本人の基本的な、生活してゆく上でそのような価値観が少なからず構築されていたと考えられるのではないか。そして、そのような社会は回り回って個人の利益になることも長い江戸日本の歴史の過程で育まれつつあったのでは。もっと言えば、個人の利益と社会全体の利益が一致しないまでも対立しない、調和する社会とでも言えようか。よく言われるように、個人の利益と社会全体の利益は両立するのかしないのか?一致しないことの方が圧倒的に多いし、このことは永遠のテーマかもしれない。おそらく、ハリスが来日し、生活していた江戸末期の日本ではほぼ両者の間に不必要な対立がない、安定した調和的な社会だったのでは推測する。このような社会は当時の欧米社会には見られない風景だったのではと個人的には考える。「衣食住に関する限り完璧に見える生存システム」という彼の言葉の中に含まれる意味は、衣食住という最も生きる上で不可欠の要素に不安がない社会が目の前にある、おそらく以上のように推測されがどうだろう。
このような論を展開するのは理由がある。どうしてか?というと、江戸時代約260年間、数多の自然災害が発生し、飢饉だけでも約35回も発生、この数字は約7・5年に1回の割合で発生していることになる。これは飢饉だけであり、その他の災害、例えば地震や大風による大火などは含まれていない。私は、第1回目の稿で「天災は忘れないうちにやって来る」と述べたが、江戸時代も様々な自然災害が発生し、幕府を、諸藩を、庶民を苦しめていたのである。つまり、日本が災害大国、災害列島であることは江戸の昔から変わっていないのであり、この日本列島で暮らす私たちの宿命・運命といってもいい。
これら35回の飢饉のうち幕府や諸藩の屋台骨を揺るがすような大飢饉は4回発生している。したがってこれらを「江戸4大飢饉」という。資料によると江戸時代最初の大飢饉(寛永大飢饉)は、第3代将軍家光の時代1641~43にかけて発生したようである。この大飢饉は主に西日本を中心に発生した飢饉で、コメ不足で餓死した人は約5万人~10万人という記録があるようだが、これは幕府や藩に過少申告されての数字のようで、実態は数十万人ではないかとの話もあるほどで詳らかでないが。いずれにしろ大飢饉であったことは確かなことだと判断できる。このように、災害列島である日本で生きてゆくためには人々の協力が不可欠であり、個人の利益を優先させていては社会そのものが成り立たない背景があったのではと考えられるし、今後もこのことは変わらないのだ(ついでに言っておくと、飢饉以上に民衆を不安にさせた大地震は安政年間に3度連続して発生している)。
実はこの大飢饉が起こる数年前に幕府や親藩、譜代藩に緊張が走る大事件が発生していた。この大事件への対応が大飢饉の遠因になったという背景がある。この大事件とは1637年に起きた「島原の乱」である。寛永14年(1637)から翌年にかけて肥前島原と天草のキリシタン信徒が起こした一揆。この地方は元来キリシタン大名の有馬晴信や小西行長の領地で、キリスト教徒が多かった地である。関ヶ原後、領主が変わり年貢の取り立てが厳しくなったことに加えて、幕府の禁教政策によりキリシタン弾圧は過酷になった。このような状況下で、寛永14年11月、不満が頂点に達していた島原半島一帯の農民が蜂起。これに、商人、手工業者、船頭なども加わって、大反乱となった。蜂起した人たちは豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(天草四郎)を首領に推して軍隊化、さらに反乱者数は膨れ上がって一揆は一気に原城を占拠、籠城。仰天した幕府は12月、板倉重昌(家康に幼少から仕えた三河深溝領主)を派遣、弾圧に乗り出したが、反乱軍の勢力は強く、その数は38000~9000人)であったらしく、幕府は対応に苦慮。翌年の元旦に、総攻撃をしたが失敗、板倉重政は戦死。幕府は威信にかけても反乱鎮圧を決意。家光は、ついに老中の松平信綱(武蔵川越藩主)を派遣、信綱は原城に立て籠もる反乱軍を正面から攻撃せず、搦め手から屈服させる方法をとった。
信綱は九州各藩の兵に動員をかけそれを中心に十数万の兵士で城を囲んで兵糧攻めを選択。これに加えてオランダ船『レイプ号』に依頼して砲撃を実施(心理的な圧迫の効果)。籠城の農民たちは頑強に抵抗したが、やがて食糧・弾薬が尽き、幕府側は2月末、総攻撃をおこなってついに反乱側は陥落。幕府側は勝利したものの、損害も甚大であって、40万両の戦費と数千人の武士を失い、その後の幕府の政治に大きな影響を与えたこと(厳しい鎖国とキリスト教への弾圧政策)が、やがて起きる「寛永大飢饉」の遠因となる。つまり、後々、ボディブローのように効くことになる。
というのも、幕府はこの大反乱を鎮圧するために九州各地から、幕府側の軍役・兵粮を徴発、この量が半端な量でなく莫大な量となって九州の農民農地を疲弊させ、深刻化。乱が終了して2年後の寛永19年(1640)には西日本を中心に全国的に農耕の大事な労働力である牛疫病が流行(今の鳥インフルエンザのようなものか)。特に九州では牛疫病が大流行して、多くの牛を失ったことで農民の労働意欲が低下して農耕に甚大な影響。さらに困ったことに翌年寛永20年(1641)、西日本が旱魃に見舞われ、虫害(うんか、稲熱病)の大量発生、北陸・関東・東北では長雨・冷害、大洪水が各地で発生し2年連続の大凶作に。これが江戸時代最初の大飢饉となる。大飢饉の影響はさらにその後の幕府に深刻な影響を与えることになった。
というのも、食糧不足に苦しんだ多くの農民は農耕をあきらめて田畑を捨てて山野に入り、葛・蕨の根を掘って食糧に。今の世の中では考えられないことが起きたのである。さらに、食糧を求めて大量の人々が流民となって、全国各地の城下町や宿場町に流入。特に、大坂、江戸、京都、伏見は流民が生きるために犯罪者になったり乞食になったり。換言すれば治安が極度に悪化することになって、幕府も諸藩も頭を抱えることに。前述したが、餓死者は少なくとも100万人にのぼったのではという意見もあり。兎に角、深刻な社会状況になったのである。
この頃、下野(現在の栃木県)黒羽藩の執政であった鈴木武助はこの大飢饉の惨状を著『農諭』のなかで、次のように警告している。「飢饉は100といわず、ちかければ三十四十、遠くても五六十年の内に来ると思うべし」と。このように、当時の為政者にとって、飢饉をはじめとする自然災害がいかに恐怖だったか、日頃の平穏の時から災害には備えなければならない心構えを説いている。
以上、前回がかなり長くなってしまったその反省から、今回はこれで筆を置くことにする。次回は残る3つの大飢饉を取り上げ、紙幅が許せばハリスの通訳として来日したヒュースケンの言葉についても私見を述べてみたい。ではまた。
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日本よ、何処へ 第5回
登利昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年10月09日
「天災は忘れた頃でなく、忘れないうちにやって来る」近年の日本における自然の姿はかくの如しではないか。その自然界がまたまた牙を剥いて人々に襲い掛かった。先月21日午前の能登半島豪雨である。前回の稿を掲載して僅か10日後のこと。数時間の線状降水帯による想像を超える記録的豪雨で能登半島を流れる中小27河川が氾濫。土砂崩れ、道路の崩落に伴う寸断、家屋の流出、ライフラインの切断で人々を絶望の淵に。今年元日の悪夢(震度7の大地震)から漸く立ち直りかけつつあった人々に今回の水害。「神も仏もないのか・・・」「心が折れてしまった・・・」「能登は住むに適さないのか・・・」などなど。
今回の豪雨は元日の地震に追い打ちをかける大災害。「天から地から」、1年も経たぬ間に上から下からの災害。繰り返し流されるニュース画像は「自然の猛威」の前では、「人」は立ち尽くすしかないことを物語っているように思えた。今回の水害は元日の「地震」以上に「能登」の人々の「心」に大きな痛手となったのではと推察される。地震で住む家を無くした人々が暮らす「仮設住宅」までも濁流の浸水。肉親を失った被災者の心はいかばかりか、言葉がない。政府は全力を挙げて物心両面で支援しなければと思うが。権力闘争(解散総選挙)などやってる場合ではないだろうと考えるが。権力に取り憑かれた政治家には馬の耳に念仏とはこのことか。
総選挙とは聞こえはいいが、実質はドロドロとした権力闘争以外の何物でもない。被災地に入る閣僚は多いが、その光景を自分の目で見つめて、今何をすべきか優先順位もわからないのかと考えるがいかが。こんな災害時に総選挙をしようというのは人災としか言えないだろうに。行政に携わる人たちは選挙となれば投票に向けて一連の準備作業に入らなければならないことは言うまでもない。大体、投票場所になってきた公民館や学校施設に被災者が身を寄せ避難生活をしてところもあるのだ。それも踏まえて調整しなければならず、そうでなくとも復旧に向けて忙殺されているだろうに。国民の生命・財産を守るのが国家の、政治家の仕事だろうに解散総選挙とは。
これをなんというか「軽挙妄動」という。また自民党の妄動を許している野党のだらしなさ。与野党どっちが悪い。どっちも甲乙つけ難く悪い。いやいやこんな与野党の政治家を選んでいる国民が悪いのかどうか私にはわからず。とにかく与党の狙いは野党の準備が整わないうちに、野党の統一・一本化がなされないうちに選挙をやれば勝って政権が維持できるのではという賤しい狙いが透けて見えて。党利党略そのものではないか。このようなことも慮らない政治家・政党に日本を任せられるか。いやはやなんとも君。
自然の脅威は日本に限ったことではない。今夏、全地球規模で災害が発生している。米国、メキシコでは巨大「ハリケーン」の襲来、特に9月26日に前者のフロリダなど南部6州に上陸した「ヘリーン」は2005年8月の「カトリーナ」に次ぐ今世紀最悪レベルのものらしく、死者215名、行方不明600名以上。トランプ前大統領、数日後にバイデン、ハリス正副大統領が視察。あまりの光景に言葉がなかった模様。被害総額は36兆円以上との試算。また、メキシコを襲ったハリケーン「ジョン」は死者20名以上、多くの農地が洪水で流され復旧には長い年月を要するとのこと。また、あまり水害のない中欧の国々でも大きな洪水が発生。先月13~16日に100年に一度クラスの豪雨「ボリス」に伴う洪水が発生。ポーランド・チェコ・ルーマニア・オーストリア・ドイツなど8カ国以上に被害が。9月16日時点で死者は21名とのこと。ヨーロッパ第2の大河ドナウ川が流れる国々。ただ、これだけの洪水でも被災者・避難者が発生しなかった奇跡の都市が音楽の都「ウィーン」。その理由は、オーストリアを治めていたハプスブルク家が19世紀末に、蛇行するドナウ川の川幅の拡大、直線的に流れるように大改修したことで、被災は免れたとのこと。
日本だとさしずめ武田信玄による「信玄堤」といったところか(信玄が毎年のようにおこる氾濫をなくすために、天文10年から約20年の歳月をかけて釜無川と御勅使川=みだいがわの合流地点に築いた強固な堤防。この信玄堤以上に大工事・難工事だったのが、江戸時代中期に差し掛かる頃、木曾三川の洪水を防ぐ一大治水プロジェクト。一説によるとこの工事は歴史上最も困難なものであったらしい。木曾川・揖斐川・長良川の河口にあったのが桑名藩。現在の三重県桑名市や長島町。家康は桑名藩の初代藩主に四天王の一人本多忠勝を任命、家康はそれだけこの地を重要視していた。後に藩主は松平家に変わるが。参考までに述べると、桑名藩は譜代の藩で後に親藩となる藩であり、尾張徳川のお膝元である。1753年=ペリー来航の100年前、幕府は9代家重の時にこれら三河川の治水工事を決定。それを担当する藩に薩摩藩を指名。この担当を手伝普請というらしい。指名した理由はいわずとしれた薩摩藩の経済力=軍事力を削ぐためであり、関ヶ原から100年以上経ても幕府の薩摩不信は根強く残っていたのである。それだけ薩摩藩を恐れていたし、警戒していた証左でもある。
薩摩藩ではこの指名を受けるか否かで家内が大紛糾。幕府の狙いがわかっていただけに苦悩に沈んだが受けるか断るか結論を出さねばならない。幕府と戦ってでも辞めるべきの意見を、当時家老であった平田靭負は抑えて引き受けたのだ。当時の薩摩藩主は第7代島津重年。平田は「幕府と戦えば薩摩は戦場となり罪のない子供や百姓が命を落とす。ならば、この治水工事を引き受け、異国といえど美濃の民百姓を救うことこそ薩摩隼人の誉れを後世に知らしめ、御家安泰の基となろう」と言って熱り立つ家臣を説得したという。平田は947名の家臣を率いて工事を推進。幕府役人の厳しい監督、異郷の地での不慣れの大土木工事のため多数の犠牲者が発生。どうやら、犠牲者は84名前後であったよう。内訳は工事中に自害した藩士51名、病死が33名。それに加えて40万両の負債を背負いこむことに。参考ながら、当時の薩摩藩の歳入は約10万両。この負債とそれまでの負債を合わせると約100万両に膨れ上がったという。とんでもない額の負債額になり、以後薩摩藩に重く伸し掛かることとなった。
平田は1755年5月24日工事が滞りなく終了したことを報告する手紙を藩主であった島津重年に認め、その翌日未明に多くの家臣を失い負債を背負った責任をとって切腹。場所は大牧村=現在の岐阜県養老町。平田と犠牲となった家臣の墓所は、現在の岐阜県・三重県に分散して建立された。岐阜県の海津町にある治水神社は水難除けの神社としてよく知られており、祭神は平田靭負。参考までに平田の辞世を紹介する。
住み馴れし 里も今更 名残にて 立ちぞわずらふ 美濃の大牧
平田の無念さがよく出ている辞世と考えるが如何か。序でと言えば語弊があるが、藩主の重年は薩摩江戸藩邸でこの手紙を病床にて読み、涙したという。重年もこの1755年に亡くなっている。この大難工事を「宝暦の治水」という。どうしてこの歴史を紹介したかというと、御存知ない方がもしかしたらと思い綴った次第である。この時の薩摩藩の恨み辛みは後の歴代藩主・家臣団の骨髄に達し明治維新まで続いたのであり、薩摩藩が倒幕・明治維新の主役になった背景のひとつが理解できる。
平田にはこの工事を引き受けたらどれほどの困難が待ち受けているか、予めほぼ予想はついていたように思う。それでも引き受けた最大の理由は前述したように、「薩摩藩・島津家の存続」を第一に考えて自らの命はほとんど省みていなかったのでは。このような家臣がいたことが島津家の宝であったのでは。幕府徳川家はなによりこのような家臣を持つ島津を恐れたのでは?当時国内には300余藩があったが、島津藩が抜きん出ていたその秘密の片鱗を垣間見ているような気がする。
薩摩といえば「示現流」で有名である。この剣術の「極意」は「肉を切らせて骨を断つ」。剣術の稽古は只管打ち込みだけ、只管。(この稽古は禅宗修行の只管打坐に相通じるものがあると私は考えている)。幕末の京都の治安を守った「新撰組」は剣豪が揃っていたことで名高いが、薩摩藩士には一目も二目も置いたという嘘か誠かそういう逸話がある。なかでも薩摩一の示現流の使い手として恐れられたのが桐野利明、通称は中村半次郎、人斬り半次郎という。この男には新撰組の使い手も絶対手出しはしなかったようだ。「示現流」は相手に対した時に最初から自らの「命」は捨ててかかっているのである。薩摩には伝統としてこのような精神というか「哲学」がある。その「哲学」というか「伝統」というか呼び方は扨措き、この精神が大いに発揮された出来事が幕末におきた。参考までに簡単に触れておきたい。
1862年(文久2)8月21日、幕府と幕末の政情を相談した島津久光一行が鹿児島への帰途、神奈川生麦村付近(横浜市鶴見区)を通行中、騎馬で大名行列を横切った4人のイギリス人一行に藩士が切りつけ、リチャードソン死亡、2名が重傷、1名は逃亡という大事件が発生。そう、世にいう「生麦事件」である。この報告を受けた英政府は激怒、直ちに代理公使ニールに幕府との交渉を命令。ニールは幕府に10万ポンド(約40万ドル)の賠償金と謝罪を要求、薩摩に対しては賠償金2万5千ポンドと犯人の死刑を要求、幕府はすぐに要求を受け入れたが、薩摩側は英国の強硬な要求を拒否、理由は薩摩に落ち度はないというもの。薩摩側は何度か注意したものの英人たちが聞き入れなかったから止む無く行使したと要求を強烈に拒否。翌年、薩英の衝突に発展。
翌1863年(文久3)6月28日、英国は艦隊7隻を錦江湾に派遣して薩摩を威嚇。その圧力下で交渉を有利に進めようとしたが決裂。英側は薩摩船「白鳳丸」「青鷹丸」を捕獲、焼却。薩摩は直ちに開戦、各砲台が一斉に英艦隊を砲撃、英側は旗艦ユーリアラス号艦長ジョスリング大佐はじめ13人が死亡、負傷者50名の損害。薩摩側は戦死5名、負傷は数十名。鹿児島城下の1割が英国の砲撃で焼失、英国のアームストロング砲の威力を実感。この大砲の射程距離は薩摩の4倍。薩摩は大久保利通らを英国との交渉に派遣。薩英が接近、薩摩はこれを機に留学生19名を英国に。幕末の政局に大きな影響を及ぼす。
このように薩摩藩は当時においては世界最強と評判の英国艦隊に一歩も引かずに、ただ1藩だけで戦い筋を通したのである。幕府が英国の威嚇の前に膝を屈したのと正反対であった。このような薩摩藩に英国は内心腰を抜かしたのであった。1国でなく1藩というのは世界どこを見渡してもあり得ない。実は日本が1700、1800年代に欧米の植民地支配を受けずにすんだ理由の一つがこのあたりにあると考えても間違いではない。薩摩藩の対応の根底に「示現流哲学」があったのではと考えるのは誤りだろうか?薩摩は幕府の対応に内心ではなんと腰抜けと思ったのでは?ペリーは武力をちらつかせて幕府に開国を迫り翌年にそれは叶った。歴史に「たられば」は禁物だが、もし薩摩武士が当時の幕府要人であったらどのような対応をぺりーにしただろうという想像は可能だ。簡単に触れると言いながら長くなってしまった。
実は維新の主役であったもう一つの藩である長州藩も同様の指名を受けたことがある。つまり、薩摩だけでなく長州も幕府から酷いいじめを受けたことがあり、これが後に「薩長同盟」を締結する理由・背景となるのだ。「薩長同盟」といえば直ぐに坂本龍馬が持ち出されるが、薩長両藩の家臣達の意識の根底には幕府への共通の「怨念」のようなものがあって、幕末の両藩の種々の障壁を乗り越えられた最大の要因だったのではないかと考える。
長州も後に、幕府から大きな負担となる同じような工事を指名される羽目になり、これまたとんでもない負担をしなければならないことになる。宝暦の治水が完了して10年後に不幸が襲う。3河川の上流を豪雨が襲い、またまた想定を上回る大洪水が発生、特に木曾川流域の水害は破壊的であったようである。幕府はこの復旧工事を担う藩として長州藩とその支藩の岩国藩、譜代の小浜藩を指名。動員人数・負担金はそれぞれ800人・24万両、160人・4万両、140人・2万両といったものだったようで、薩摩ほどではないが、外様であった長州と岩国の負担の大きさが一目でわかる。幕府の薩長いじめの過酷さと陰険さと薩長の怒りの程が理解できるものだ。
古の昔より治水対策は為政者の最重要な政策のひとつであって今も変わらないのであるが、幕府の薩長への厳しさは少し度を超えていたのではと思う。換言すれば、その後の幕府の薩長への配慮が無さ過ぎたと考える。ちょっと余談が長くなりすぎたがお許しあれ。こような歴史的な背景を踏まえれば、倒幕・戊辰戦争の際、また維新後に薩長が幕府・佐幕藩出身者にとった様々・巧妙な策は過去の報復であり歴史の必然と理解できる。
では、家康が開いた幕府は日本の長い歴史において評価する意味合いは少ないのか、というと、この点についてはまったくそうではないと断言しておきたい。つまり、幕藩体制については現在の価値基準や物差しでみると種々の矛盾や問題点は多々指摘できようが、しかし、400年以前のことを令和の視座・視点で判断することそのものに無理があると私は考える。では徳川幕藩体制をどう評価するのかしないのか、その判断材料として実に興味深い人物2名が幕末の日本についてどのように述べていたか紹介したい。
その一人目は、現在のニューヨーク市立大学の設立者タウンゼント・ハリス(1804~1878)。幕末の駐日総領事として1856年(安政3)に下田へ着任(明治維新の12年前)。来日の目的・ミッションはその2年前(1854)に締結された「日米和親条約」のスムーズな実施と拡大・推進。以後、幕府に対して通商条約の締結を迫り、1858年(安政5)「日米修好通商条約」の締結に成功。同年12月に公使に就任。1862年(文久2)4月に解任されるまで日本に滞在して日本社会を観察・分析。そのハリスが日本についてどのように述べているか大変興味深いので少し紹介したい。「衣食住に関する限り完璧にみえる一つの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろう」。
ハリスのこの言葉は1858年(安政5)に下田に来泊した英国のエルギン使節団の艦長に述べた言葉である。エルギンという人物は英国の外交官で、1850年代半ばから4度の英国首相を務めたグラッドストーンと友人であった人で、米国が日本と通商条約を結んだことを知った英国政府が米国に対抗して、日本と同様の条約を締結するために英国政府が派遣した人物である。
大切なことはこのエルギンでなく、ハリスの言葉である。当時の日本は衣・食・住について完璧なほどに外国に頼ることなく確立していたとハリスは認めているということ。当時の世界を眺めてこんな国があっただろうか?あったとしてもおそらく極めて少数だったのではないか。つまり、ハリスは極東の小国にすぎない日本に驚嘆しているのである。と同時にヨーロッパ文明がこのシステムを破壊しようとしているのではと危惧していたようだ。逆にいえば、果たして日本は欧米諸国と付き合わねばならない必然性があるのかどうか、本音では疑問に思っていたということだろう。現下の日本はどうだろう。当時と単純に比較はできないが、例えば、食糧自給率一つをとってみても、幕末の日本がいかに自己確立をしていたかよくわかるハリスの言である。
もう一人紹介すると、駐日アメリカ公使館通訳のヒュースケン。彼は、米国人ではなくオランダ人で、オランダ語はもちろん英語・仏語も堪能で、日本着任後は日本語を習得。ハリスの外交活動をよく助けた人物として知られる人である。その彼は当時の日本についてどのような言葉を残しているか、彼が来日後に、当時の日本社会を欧米と比較して危惧したことを綴った日記の一部を紹介したい。「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質朴な風俗とともに、その飾り気なさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子ども達の笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が重大な悪徳を持ち込もうとしているように思えてならない」。
ハリスとヒュースケンはほぼ同じような危惧を有していたと推察される。つまり、当時の日本人が作り上げた社会の、欧米にはない豊かさ(物質の豊かさでない心の豊かさか、それに類する価値観か?)あるいは文化を比較して視ていたと考えて差し支えないと思う。彼らは自らが属している西洋の文明を異質な信条・悪徳とまで表現しているのだ。自分たちが所有しどっぷりと浸かっている文化の中に日本人には適さない何かをきっと凝視めていたのではないか。別の言い方をすれば、日本のこのような平和な、争いごとがない社会を作り上げた江戸時代は特筆されていいし、その礎を築き260年もの長期間存続させた江戸時代はもっと見直されていいし、誇りに感じ、評価していいと考える。いや日本人は江戸時代をあまりに過小評価しているのではと思う。ハリスは、日本の当時の衣食住のシステムを完璧と表現し、ヒュースケンが悲惨なものをどこにも見出せないとまで言い切っている社会を築き挙げた江戸期の政治環境および日本人の精神を見つめ直すべきと私は感じている。その理由は、日々洪水のように溢れるニュースのなかにどれだけ明るいニュースがあるというのか、日本人の価値観は今、やり直せるかもう無理かの最大分岐点にあるような気がしてならないからである。江戸期の平和な戦いのない社会を構築できた理由や背景を、歴史的見地はもちろん哲学的にも吟味する必要性が是非ともありそうだ。この話題の最後にちょっと書き足しておくと、ヒュースケンは不幸にも、当時の尊王攘夷の嵐の中で、万延2(1860)年1月15日夜、尊攘派の薩摩藩士らに襲われ、翌日死去したのである。
平和な社会が約260年も存続した江戸時代についてはいずれ紙数を割いてじっくりと論考してみるつもりである。江戸期約260年間、西欧はどのような歩み方をしたのか、比較研究がなされねばならず、それを基礎にして明治以降の日本の歴史も吟味する必要があると考える。余談が長くなりすぎたので最初の話に戻る。
日本にとって何かと付き合いが難しい国である中国。政治・経済・軍事面で日本に揺さぶりをかけている中国。去年8月初めの台風5号(トクスリ)による被災の規模は甚大だったようだ(参考までにこの台風による被災者は200万人、600年間も水没被害のない北京にある故宮・紫禁城まで浸水被害)。今夏、昨年を上回る中国の台風被害は、映像を視聴した人も多いのではないかと思う。台風11号(9/6上陸、通称ヤギ)、台風13号(9/16上陸、通称バビンカ)、台風14号(9/19上陸、通称プラサン、この日、深圳で中国人に刺された日本の男子児童が死亡)と3連発の台風襲来。いずれも猛烈台風で、被害は不明、発表もなし、いずれにせよ甚大であることは推察される。中国では、国家主席の習近平は「天から見放された」という声が高まっているとか、真偽のほどは日本のマスコミは報道しないから不明。一説よると、中国の2020年から始まった「気候改変プログラム」(人工的に降雨を促し、旱魃に苦しんだ長江流域の水不足を無くそうという計画らしい)の影響ではないかとの噂がひそひそと広まってるとユーチューブに。またまたいやはやなんとも君。
ヒマラヤの麓ネパールで先月27日からの2日間の豪雨により、首都カトマンズをはじめ周辺地域が大洪水に。死者が100人以上、多数の行方不明者が発生しているとの報道。北半球ではかくの如くハリケーン・台風・大雨による洪水が猛威を振るってる。
その反対、地球の南側では真逆の自然現象が発生している模様。南米ブラジルの北、赤道地帯を流れる世界第2の大河アマゾン。流域面積では、アフリカのやはり赤道地帯を源流とする大河ナイルを凌ぐ。そのアマゾン流域で目を疑うような現象が。アマゾン流域ではここ数ヶ月近年稀にみる旱魃(かんばつ)が発生しているようである。支流の多くが干上がり、往来は船でなく、川底を歩く現地の人々の姿がニュース報道で。砂漠の上を歩いているのではない。アマゾン流域(大森林地帯)は生命体生存の絶対条件である「酸素」の最大供給基地といわれる。そこで由々しき事態が起きているようだ。アマゾン流域は近年、様々な稀少鉱物資源が眠っている関係で、大規模な資源開発、食糧増産のための農地開発が進行しているようで、経済開発を優先する営みに原因があるのではと多くの科学者が警告しているとのこと。いやはや、近年の生命体が生存するための絶対不可欠の条件2つ「水と酸素」の生産リズムに赤信号が点滅しているようだ。
なにが本当なのか解らないが地球全体のリズム・サイクルに何某かの大きな異変が起きていることは想像に難くない。別の表現をすれば地球の健康が失われつつあるということなのだろう。これらの現象もすべて「地球温暖化」が原因であると専門家の意見。その「地球温暖化」は化石燃料の大量消費、莫大な排気ガスによる二酸化炭素の蓄積に起因する温暖化とはよくいわれるが。確かに世界の氷河は年々小さくなり、地球を冷やす冷房装置である南極・北極の氷は溶けてその役割が小さくなり、反対に海面上昇による国土の喪失が進む国もあって。だから二酸化炭素を大量に排出する自動車・火力発電所が槍玉にあがり、それに替わるものとしてEV車・自然再生エネルギー開発が強く叫ばれていたが?ところが昨年あたりから、EV車はガソリン車以上に地球環境に悪いのではとの声が。というのもEV車は言うまでもなく大量の電気を必要とする。世界の車を走らせる電気をつくるのに再生エネルギーによる発電ではまったく間に合わない。いきおい火力発電を増やすか原発を増やすかということになり、世界の流れはここに来てEVが失速、PHVに人気が変わりつつあるようだ。そうでなくてもこれから世界はAI開発で莫大な電力を必要とするようだ。効率の悪いEVより、エンジンで発電それでモーターを回して走るほうがずっと経済的・効率的であると。一時、EV開発に遅れをとっていた日本や日本の車メーカーは世界から非難されたが。どうもEV開発には政治的な背景が見え隠れして。また、まったく二酸化炭素を出さない燃料電池車の開発は日本メーカーがリードしているようであり先行きは混沌としている。結論を言えば、人類生存に絶対不可欠の要素「水と空気」に関わる異常事態、自然界の「混沌」が以前にも増して拡大している。
混沌(カオス)といえば、人類全体の動向は自然環境以上に「混沌」的状況にあるのではと思う。ロシア・ウクライナ戦争の行方は予測がまったくつかず、種々駆け引きが進んでいるようであるが。特に、来月初めの米大統領選がどうなるかによって大きく動くのだろうとは思えるが見通しは立たない。これに輪をかけて危惧されるのが「世界の火薬庫」である中東情勢である。去年10月7日に始まったイスラエルとイスラム組織ハマスの紛争が1年経った今でも続いてさらにエスカレート。イスラエルとレバノンのイスラム武装組織ヒズボラの紛争になり、悪いことにイスラエルはレバノン南部に地上侵攻、空からの空爆と合わせて多くの犠牲者が出ているとの報道。イスラエルはハマス・ヒズボラ両組織の最高指導者を殺害。ヒズボラはイスラエルに多数のロケット弾を発射。また、イエメンのイスラム武装組織フーシ派がイスラエルにロケット弾を発射、次々と報復の連鎖に。この地域に石油の国内消費の大部分を依存する日本にとって危険状態になりつつある。でなくとも国内は昨年来物価の値上げが続いて悲鳴が上がっており、これ以上の値上がりは我慢の限界をもしかしたら超えるかも。いやはやなんとも。
イスラム武装組織の後ろ盾であるイランが、先日ついにこれまでのイスラエルの攻撃への報復として180発のミサイルを発射、イスラエル国内にどれだけ着弾したか不明だが、すぐさまイスラエルが報復を発表したことからわかるように、少なからずの被害があったものと推測される。
報復は報復を呼ぶ。報復の連鎖は世界全体に悪影響どころか、罷り間違えば「第三次世界大戦」にも繋がりかねない。1日も早く当事国は停戦協議のテーブルに着席するよう主要な国々は最大限の努力をする必要がある。
自然界の「混沌」、人間界の「混沌」。どちらも人間を不幸にする。両者の間には奥深いところでなにか関連があるのかないのか。どちらも人類全体の未来に関わる。
以上長くなったので、ここら辺で筆を措くことにしたい。今回はカエサルとクレオパトラの別の話や、ローマの発展の秘密とキリスト教など、また、三大美人の一人中国の楊貴妃と唐などを予定していたが、能登豪雨があったので筆先が変わってしまった。いやいや書きたいテーマが有り過ぎて、整理しなければ。では次回また。
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日本よ、何処へ 第4回
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年09月11日
前回は、7月の「ローマ」の続きを述べようと考えていたが、取り上げざるを得ない報道が連続してあったので止む無くそちらにペンが向いてしまった。8月という、日本国を考える際、私にとっては特別の響きを持つ季節なのである。そもそもこの論考の中心テーマは「国家」とは何か「日本とは」「日本の進むべき望ましい道」はどの方向がいいのかであるが、そのように国家を強く考えさせられる季節が8月なのだ。その最大の理由は、国民の多くが先の「戦争」を否が応でも想起するからなのだろうと推測するが、現代の若者にとっては教科書上の遠い歴史の断片になっているのだろうか。もしそうだとしたらそれだけ現代日本が「平和」であることの証左なのだろうが、この平和が「永遠」」である保証はどこにもないことを「心」に刻む上でもやはり一言発するべきと思い、この論考を進めた次第なのだ。
では7月のテーマであった「ローマ」に話を戻そう。「ローマ」がまことに小さな都市国家から出発して数百年の時を経て、地中海沿岸のみならず現代のヨーロッパ世界にまで支配領域を拡大したプロセスについて、「最大のエネルギーはなんだったのだろう」と、自分の中で何か納得できないものがいくつも頭の中に渦巻いている。「ローマ」が未だ小さな都市国家であった当時、同じような都市国家は約1000以上あったと言われている。いやその倍の2000程度存在したのではと考える研究者もいるようである。その中でローマが強大化した背景は、もっと言えばローマ発展の理由が何なのかよくわからないのである。本当にこの理由については、長く論争の主題となり今尚世界の大学で、研究機関で日々究明が進められるがよく解らないというのが真相のようだ。これまでも著名な歴史学者・考古学者・政治家をはじめ多くの研究者が様々な立場から究明を試みてきたようだが、帯に短し襷に長し状態で決定打に欠け、そういう意味でも「永遠のローマ」なのかも知れない。
「ローマ」がこれほどまでに強大になり今以って人々の心を擽(くすぐ)るには理由(わけ)があるにちがいない。別の言い方をすれば「魅力」があるのだ。「魅力」があるからこそ人々を惹きつけて止まないのだ。ローマ以上に大きな版図を有した国は歴史的には存在する。例えば、チンギス=ハーンのモンゴル帝国である。13世紀初め、モンゴル高原の遊牧民族の統一を成し遂げて、その実子や孫たちがさらに支配領域を広げて(フビライの元は鎌倉時代に二度も日本に攻めてきた=元寇)、アジアとヨーロッパに跨る大帝国を築いたが、「ローマ」に比べると魅力度の点は残念ながら低いと思う。そうでない人もいるかも知れないが。
では、その「ローマ」の魅力とはなんなのだろうか?人によって惹きつけられるものは異なるだろうが、飽く迄も私にとってその魅力とは、登場人物(キャスト)の個性(面白さ、人間臭さ)・各種公共建築物遺跡・ローマの政策・文化など現代の欧米文化のベースがほとんど「ローマ及びさらにそのベースのギリシア」にあるといってもいいように思われる。つまり、「ローマ」と現代ではまったく時代と文明の度合いは違えども、人間のすること考えることは今も昔もほとんど変わらないのではと思わせるものが多いのだ。すなわち、現代人の心の奥底にローマが生き続けているのだ。もう一度、以前少し触れた人物に登場願う。
その人物とは、もうお解りであろう。「ローマ」最大の魅力があって、人間臭くて、面白くて、天才で、借金漬けで、女誑(たら)しで、分筆の才があったといえば誰か。この問いに答えられない人は殆どいないのではないか。そう、「ローマ」を体現する「ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)」だ。何をしでかした人か知らずとも、名前だけは誰でも知っている人物、否、世界史上最大のスーパースターと言っても過言ではないように思うが如何。世界史には多くのスターが登場するが、この人物に勝てる者はいないだろう。勿論、私の独断と偏見だが。なにしろ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」とまで喩えられるカエサルである。この言葉はご存知のように、キリスト教新約聖書マタイ伝の言葉である。意味するところは、神への服従(信仰)と国家への義務は矛盾しないということのようだ。まったく異なることであっても、両者ともに守ることは矛盾ではないと説いたイエスの言葉のようであり、本来の持ち主に返せという意味でも使われるようだ。このように、新約聖書にも登場するのがカエサルである。
また、英国の偉大な劇作家シェークスピアが16世紀半ばに創作した史劇・悲劇『ジュリアス・シーザー』もカエサルの人間像を描いている。この作品はカエサルがあまりにも英雄であり、英雄であり過ぎたための悲劇として描いているようで、また最高の史劇と評価されているようである。どんな劇にしろまったく興味も関心もない私としてはよくわからないというのが本心だ。きっと、シェークスピアにとって絶対に史劇のテーマとして・人物として取り上げざるを得なかったということなのか。
カエサルという人物はまた、「カイザー」という独語の語源としてもよく知られている。「皇帝」を意味する独語だ。このロシア語が「ツアーリ」である。ローマ帝国初代の皇帝は前々回に触れた、カエサルの養子であったオクタヴィアヌスであるが、帝国の基礎を実質的に築いたのはカエサルなので、カエサルを追慕するとともに、「カエサルの後継者」という意味で、個人名が最高権力者を意味する称号になったようである。このような歴史の例があっただろうか?よく判らないが、おそらく、カエサルだけで他にないのでは?もちろん、個人名が使用される例は沢山ある。例えば、大阪難波の道頓堀。これは堀を開削したと伝えられる安井道頓に因む。また、大阪淀屋橋は豪商淀屋に因むし、半蔵門は家康に仕えた伊賀武士の服部半蔵に因む。しかし、個人名がそのまま「単語」になったという例があるのかどうか、あるのかも知れず。
このカエサルは、世界三大美女の一人古代エジプトの最後の女王クレオパトラと結婚したことでも有名であり、二人の間にはカエサリオンという男児がいたようである。どういう経緯で二人が出会ったのか、嘘かまことかドラマチックな話が残っている。
当時、クレオパトラは幼い弟のプトレマイオス13世とエジプトを共同統治していたが、弟の側近たちから遠ざけられていて、国王に返り咲く機会を密かに狙っていたところ、ローマきってのコンスル(執政官、当時二人いた)だったカエサルが、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリア(アレクサンドロス大王に因んで)に来ていることを知り、直接カエサルに会うことを決意、部下に命じて絨毯に包まれ贈り物としてカエサルの下に運ばれたということ。この劇的な演出と絶世の美女の出現に心を奪われたカエサルはクレオパトラに夢中になり彼女の後ろ盾となって、彼女はプトレマイオス朝の国王(ファラオ)に復位したという話である。時は、紀元前48年10月、クレオパトラ22歳、カエサル53歳。クレオパトラとカエサルは結婚して、ナイル川を船で遡る旅行を楽しんだとのこと(世界初の新婚旅行と言われている、日本初の新婚旅行は坂本龍馬とお龍の霧島への湯治療養・・・1866年寺田屋事件で傷を負った龍馬に、西郷隆盛や小松帯刀が薦めた)。やっぱり、絶世の美女となるとカエサルもイチコロだったのか。そうでなくともカエサルは女誑しで有名だったのだから。よく「歴史の背後に女性の存在がある」というが真実なのだろう(笑)。
かの有名な科学者にして哲学者でもあった仏のパスカルが遺稿『パンセ』の中で述べている。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていただろう」。このように、世の男性は美女にはからっきし弱いということなのだろう。というより、男という生き物の本質なのかも(笑)。何処かの国の政治家の中にも、何処かの国にノコノコと出かけて行って、美女のハニートラップに引っかかり、その国の指図に抵抗できない売国奴といわれても仕方のない、情けない政治家がいるようで、現段階では何処かの国の政府の〇〇長官の立場らしいが、今度の〇〇党総裁選にも名乗りを上げているとかいないとか。何処かの国とは何処か、それは言わぬが花ということだろう、いやはやなんとも君(笑)。
そういえば、8月末に何処かの国の〇〇友好議員連盟の超党派の衆参の国会議員が、先述の何処かの国を訪問したとかどうとか。そして、議員連盟の訪問団が出発する前日に訪問国の情報収集機(歴とした空軍機)が長崎県の男女群島の領空を侵犯するというこれまた吃驚仰天の出来事があったようで。きっと、何処かの国などを訪問するなとの何かの警告なのではなかったか、いやはやなんとも君である。
前回の稿でも述べたが、近頃のこの国の我が国(我が国だけでなく、我が国や米国と仲良くする姿勢を示している東南アジアの国)への敵対姿勢は常軌を逸しているとしか考えられない振る舞いで、国連の常任理事国とは到底思えない無法ぶりである。ここまでも傍若無人な行動で世界の国々からも嫌われ出しているこの国に対して何処かの国の政府・政治家はどうして毅然とした対応ができないのか。我が国の尊厳・国益を侵犯するような国に大挙して訪問するとは、いやはや開いた口が塞がらないとはこのことか。よっぽど我が国政府・政治家はかの国に急所(局所)か何か握られているのか(本当に握られていたりして)、いやはやなんとも。というか、かの国政府が、何処かの国の政治家の急所リストを保有しながら常にこれをチラつかせていたりして、もう笑えない冗談であったりして、ここまでくるともう漫画の世界か。海の向こうでは、漫画のような活躍で我が国の目には見えないが確実に存在する国益を上げている野球選手がいるというのに。世の中様々ですな。
またまた、話が筆が本筋から大きく逸れてしまった。いつものことながら情けない、御許しあれ。では、逸れた序でにもう少し述べると、面白い資料があるので紹介する。日本の南、シンガポールの研究所が行っている東南アジア諸国連合(ASEAN)の有識者世論調査で、信頼できるパートナーとして日本が米欧を抜いてトップであるらしい。その一方で、南シナ海を我が物顔で実効支配の野心を前面に出す前述の日本の政治家がノコノコと出掛けるかの国の信頼度は近年、急速に低下しているとの資料がある。これは何を意味するのか?東南アジア諸国は、日本の存在感に日本人が思っている以上に期待していると言えるのでは。知らないのはその日本人だけでは。だから、かの国にとって、自分の庭先の国々であるASEAN諸国がこともあろうに日本に信頼感を持っていることに焦りと苛立ちを持っているのかも。よほど面白くないのかも。かの国にとって東南アジアは庭先と思っているようだから。しかし、これはかの国が自ら蒔いた種だし自業自得というものだろう。あれほどかの国に擦り寄っていたASEAN諸国が掌を返すように日本への信頼感を有しているとは驚きだ。つまり、ASEAN諸国がかの国の近年における振る舞いに不信感・危機感を募らせていると同時に、武力を背景にしたやり方では他の諸国は附いて来ないことを意味する。また、このことはとても重要なことを示唆していると同時に日本が将来に向けてどのように行動してゆけばいいのかのヒントを提供してくれているのかも知れない。いつか、この論文の中でじっくりと掘り下げて考えてみようと思う。兎に角、日本は戦後から今日まで、戦前までの反省もあって力に頼らない外交が基軸だったように思うし、この方針の勝利と言えるのかもしれない。しかし、日本も糠喜びは禁物である。かの国がこれからどのような手段に出るやも知れず、またASEAN諸国が逆の掌返しをするかも知れず。今も昔も政治の世界は「闇」なのである。
自民党総裁に選ばれた新首相はこのことを肝に銘じて内政・外交をすすめて欲しいが、出馬している顔ぶれをみたら所詮無理な期待かとも思うが、皆さんはいかが?唯一、この人物ならばというような存在がいるが、この人が自民党最後の砦かも。というのも、この候補者の国家観・歴史観・政策立案の力・憲法観が他の候補とは全然しっかりしているし、なにより自政党以上に日本の繁栄・安全保障を最優先に考えているのではと思われるからである。この候補者は「日本の劣化」「日本の衰退」をどうしたら食い止められるかを真剣に考えているように見受けられる。
その理由は、この候補者の国会答弁などを見ると他の候補者とは全然異なるし、説得力があるのだ。また、外国の海千山千の指導者とも十分に渡り合える人物と推測されるからである。そして、例の〇〇国が一番首相になって欲しくない人物なのではと思うし、そもそもハニートラップなどにはかかる必要が全くないし、「債務の罠」などにはまったく縁のない人物と考えられるからである。しかし、私は自民党員ではないし党員になるつもりなどまったくないから投票もできない。眺めている以外なにもできないが。とは言え、一縷の望みは持っている。でも残念ながら人気という点では疑問符がつく。でも断言する。国民に最も人気のあるらしい〇〇候補より断然いい。
この人気候補は、多様性の社会をより推進するために、「選択的夫婦別姓」を推進するといってるが、大体、「多様性」という「概念」自体に疑問符がつく。ある意味「危険性」を伴う「概念」で、日本の歴史を鑑みてみると「?」がつくのである。ひと昔前に、「価値観の多様化」という言葉が一時期叫ばれた。人間個人の価値観は実に様々で、その価値観をその個人を尊重しようという考えであったように記憶している。と同様に多様性にも色々あって、だから「多様性」なのかも知れぬが、このような思想(哲学といってもいいか?)は、「自由」にも色々あるのと同じである。よくよく考えないと日本の「国柄」を破壊して取り返しのつかないことになるのではと危惧するが如何?いずれこれらの問題は哲学的に掘り下げて吟味したい。
この候補は、今月6日の出馬会見で「経験不足ではないか」「世襲議員は改革に適さないのでは」と記者から厳しい指摘をされた際、「足らざるは認識している。だから、強いチームをつくる」と述べていたが、これが不安なのだ。まず1つ、足りてから立候補してもいいのでは?次に2つ、強いチームを作るというが(恐らくブレーンのことだろう)、能力不足の人物が作るチーム(能力不足の人物が選ぶブレーン)は能力不足にならないだろうか?という疑問点が拭えないのだ。ちょっとした野球チームを作るのとは訳が違うのだ。何度でも言うが、国民の命・運命・財産・国益・国土・国家の威信(名誉)がかかっているのだ。上述の発言に、国民は「彼は成長した」と高い評価をしているようだが、櫻坂・乃木坂・日向坂のメンバーの人気投票ではないのだ。そんなことはわかっていると彼のファンから「猛烈」な批判を浴びるかも、ひょっとしたら殺されるかも。それだけはゴメンだ、許して貰いたい。「猛烈」といえば昭和の昔、「丸善石油」TVのコマーシャルに「オー、モーレツ!」というのがあった、懐かしいなあ(笑)。昭和はますます遠くなりにけりか。
閑話休題。パスカルの『パンセ』からえらく脱線してしまった、許されよ。本題に戻ろう。カエサルとクレオパトラの栄華も長続きはしなかった。カエサルがブルータスに暗殺されてしまったからである。クレオパトラはカエサルというローマきっての実力者の後ろ盾を得て、弟プトレマイオス13世を滅ぼしてエジプト王に返り咲き、前46年にカエサルを追ってローマに赴き、そこで以前ちょっと触れたカエサリオンをもうけたが、前44年、カエサル暗殺後エジプトに帰国。カエサル亡き後の実力者アントニウスに接近、アントニウスはカエサル同様彼女の魅力にはまって二人は前33年に結婚。アントニウス41歳、クレオパトラ28歳。この結婚により彼女の地位と支配領域は拡大したのも束の間、カエサルの養子であったオクタヴィアヌスがアントニウスを元老院で弾劾、前31年アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍は敗北。ローマの長年の悲願であった地中海世界制覇が完成。前30年、エジプトの首都であったアレクサンドリアをオクタヴィアヌスのローマ軍に占領されてしまって、アントニウスは自殺。また、クレオパトラもアントニウスの後を追うように自殺、年齢は40歳、ただ彼女の自殺はエジプトコブラという毒蛇に身体を噛ませてという方法だったと歴史は物語っている。
クレオパトラの死で約300年間続いたギリシア(マケドニア系・・・アレキサンダー以来)系の古代エジプト最後の王朝プトレマイオス朝は滅亡したのである。一方、懸案に終止符を打ったオクタヴィアヌスは、その後エジプトを併合して全地中海域の平定を完了、前27年、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈られ、ローマ初代の皇帝となって内乱後の秩序を回復させ、属州統治に専念するようになった。以後ローマは目覚しい勢いで発展してゆくのである。
今回はここら辺で筆を擱いて、次回はクレオパトラと並び称される楊貴妃について少し述べ、「ローマ」発展の背景を深堀してみることにしたい。
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日本よ、何処へ 第3回 その2
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年08月26日
今年も終戦記念の日がやってきた。8月15日は79回目の終戦というより敗戦の日と言っていいだろう。主に外地で戦火に斃れた軍人、捕虜となって長期間抑留され現地で亡くなった軍人、米軍による広島・長崎への原爆投下・東京大空襲を始め日本各地の都市への無差別爆撃で亡くなった国民は一体どのくらいの数にのぼるのか、正確な数は未だに解らず。大体の数は350万人とも言われているが。尊い人命を失い、莫大な国費を注ぎ込んで敗れた先の大戦とは何だったのか。どうしてあの戦争を引き起こしたのか、引き起こすように仕向けられたのか、罠だったのか?国家としての整理はきちんとできているのか、有耶無耶のままか。それとも反省を迫られただけか?或いは、塗炭の苦しみを味わった国民への責任・補償を国は十分に果たしているのか?毎年、日本武道館で執り行われる戦没者慰霊・追悼式典のニュースを見る度に複雑な思いになるのは私だけではないだろう。1945年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが、神奈川の厚木航空基地に愛機バターン号から降り立ち、三日後の9月2日、米軍艦ミズリー号上での降伏文書調印式から日本の戦後は始まった。日本全権の重光葵外相・梅津美治郎参謀総長、マッカサー最高司令官、つづいて中国・英国・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランド各国の代表が降伏文書に、ミズリー号上の将兵が見守るなか調印したその瞬間から日本の戦後は始まった。以後約7年間の占領期間を経て、1951年9月8日サンフランシスコ講和条約締結で日本の占領終結が決まった。それから今日である。占領後、極東軍事裁判が行われ、勝者の、勝者による、勝者のための、然も事後法による裁判が行われ、一方的な裁判で茶番劇との批判も根強くある。この裁判を正当な裁判ではないと批判した判事もいる。このような裁判は前例がなく、後世に複雑な問題点を残すことになった。勝者による裁判でなく、日本人の、日本人による、日本人のための、さらに日本国の未来のためのきちんとした問題整理が国家によってなされているのか、なされているとはいえない。どうしたことか?どうも曖昧なままである。日本民族の宿痾ともいえる体質は如何ともし難いのか。どうも今回も前書きが長くなってしまい申し訳ない。お許しあれ。
ついでといえば誹りを免れないかも知れぬが、中身がまったく異なるものの、世間を大きく震撼させるような類似の問題が発生したのに、全く類似の対応、責任の所在が曖昧な事案が発生。それは、ジャニー喜多川氏による性加害の問題である。これは、喜多川氏よる所属タレントへの性加害問題である。本来ならこの問題は、マスコミで大きく報道され、警察も捜査して当然の大人権問題であるにも拘わらず、頬被りして知らぬ存ぜぬの姿勢をとり続けていたのである。これが日本のマスコミの実態であり姿勢である。ではどうして警察が動かなかったか。きっと、マスコミが騒がなかったからか、或いは、眼に見えない闇の権力の力学が働いたのか判らないが、警察権力が動かなかったことは確かである。この問題に火をつけたのは、2023年3月、英BBC放送がジャニー喜多川氏の性加害問題を報じると、漸くといっていいのか遅ればせながら日本のマスコミも動き始めた。しかし、それまで動かなかった理由を問われると、言い訳ばかり。マスコミがよく口にする言葉は「真実の報道」。これが日本のマスコミである。今から約21年前の2003年7月に、東京高裁はジャニー喜多川氏の、権力による性加害を断罪しているにも拘わらず日本のマスコミは、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいたのである。何度も言うが、これが我が国のマスコミの実態である。悲しい哉、日本人の体質・宿痾の好例と言えるのでは。どうしてそうなったのか、原因なり責任の在り処を究明しようとしない姿勢、逆に言えば、この姿勢は80年前の戦争責任の有耶無耶の姿勢と同根であるように思うが如何?
こんなことを述べるつもりはなかったが、我が国がいつまで経っても生まれ変われない最大の原因も案外こんなところにあるのでは?原因なり責任なりを曖昧に・有耶無耶にして、世間が忘れるのをじっと待つという消極的な姿勢は、病気の原因を突き止めているのに治療しない、治療できる医者がいるのに治療させない闇の力が存在するような気がするが如何か?この空気感というか、雰囲気というか「日本病」ともいえるのでは?流石に天才医師ブラックジャックをもってしても治療は不可か?不可だろう、原因となる病巣があるにも拘わらず、切除しようとしないのだから。
終戦記念の日について思うところを縷々述べたが、実はその前日の14日に吃驚する報道に接した。岸田首相が来る自民党総裁選に出馬しないとの報道。その理由はいろいろと取り沙汰されているが、真相はわからない。公式には出馬しないことによって、低支持率の自民党を刷新し、裏金問題による政権喪失の危機を避けたいようだ。この表明によって、「乃公出でずんば」よろしく10名の人物が総裁選に名乗りを上げたようだが。最終的に出馬は何人になるのか。はたして国民はどのように評価するのだろう。看板を掛け替えたくらいで染み付いた長年の体質が劇的に変わるとは思えないがはたして。いずれ近いうちに自民党については書くつもりだ。
総裁選に名乗りを上げている人物の出馬理由を耳にすると、この人たちの政治姿勢が滲み出ていて実に面白いと言っては語弊があるか。「金銭の流れの透明化」・「領収書の保存」・「党の刷新」・「若返り」と手垢のついたことを相も変わらずだが、何か違和感を覚える。というのも自民党の総裁選だから自民党の発展を言うのは当然なのだが、今の政治勢力だと自民党総裁が総理大臣になることは間違いない。としたら、自民党よりも日本国の現状なり、問題点なり、将来的なビジョンなりを示すことがより優先されるのでは。将来の日本が進むべき進路を示せる政治哲学の持ち主はいないのか?はっきり言って、自民党がどうなろうがどうでもいいことであって、国の発展が最も核心なのでは。そこに全力を傾ける覚悟がまったく見えてこないのはどうしてか?つまり、政党と国家の優先順位はどうなっているのか?この点を国民にキチンと示せる人物はいないのか?
国会議員は国の発展のために議員になったのであり、国民はだからこそそれを信じて負託しているのだ。自民党や政党は極言すれば些末的なことなのであり、優先順位がわかっているのかと疑いたくもなる。どの候補者の言も軽いし、心にまったく響かないのは何故?このことは自民党に限ったことではない。野党の国会議員の言も軽すぎて聞くに堪えないのは私だけか?とにかく議員の発言・行動が軽すぎて見ていられないのだ。北海道選出の自民党議員の横柄な言動がユーチューブ上で拡散したと思ったら、次に同党の何とか女性議員は不倫を報道された後に、秘書給与を誤魔化して自分のポッケに入れていたとかどうとかで家宅捜査までされる始末?野党の「国壊議員」に与党の「不倫・給与ポッケ議員」、与野党を問わず支離滅裂状態。いやはやなんとも。
そう言えばかなり昔になるが、「いやはやなんとも君」というタイトルの漫画があったように記憶している。初老ジャパンならぬ高齢者の愚痴で申し訳ないが許していただきたい。たしか永井豪という漫画家の作品だったように思う。この漫画の主人公の「なんとも君」の発想がなんとももはや滑稽なほどにぶっ飛んでいた。漫画の世界なら笑って済ませるが、事は一国を左右する政治の世界の話で、国民の生命・財産・運命が懸かっているのだ。自民党総裁選に出馬表明している議員はよもやこのことを一時も忘れてくれては困るのだ。総裁の座を目指して声を上げたということは、これから投票日まで熾烈な権力闘争が行われるわけである。仮に総裁の椅子を手中にしたとしても、それ以後国民の生命財産・国益・国の運命を背負っていることを片時も忘れないでもらいたいものだ。そうでなくとも、我が国日本を取り巻く国際情勢は戦後最も厳しい状態にある。この自覚・覚悟無くして総裁になどなって欲しくない。出馬表明をした議員の顔ぶれを見渡すと、売国的行動・発言で物議を醸した人物もいるようで、誰とは言わないが、もしこの人物が総裁になろうものなら、日本国は終わりかとも思う。この議員の推薦人に名を連ねる議員諸氏は、国民の厳しい目が光っていることをゆめゆめ忘るべからず。
又もや前書きがとんでもなく長くなってしまった。誠に年寄りの愚痴はダメだと自覚症状はあるのだが。前回の続きである本題のローマについて入ろうと思ったら、またしてもあり得ない報道をみてしまった。ああっ、なんだこれはというニュースをネットでたまたま見たのであるが。「嘘だろうそんなバカな」と思ってたらどうも事実のようである。今月23日の産経朝刊にことの経緯が詳しく掲載されている。それによると、今月19日の月曜日、NHKラジオ国際放送で、中国籍の外部スタッフが「釣魚島(尖閣諸島の中国側呼称・沖縄県石垣市)と付属の島は古来、中国の領土だ。NHKの歴史修正主義とプロフェッショナルではない業務に抗議する。」と約20秒間原稿にない文章を述べたとのこと。さらに、スタッフが「南京大虐殺を忘れるな。慰安婦を忘れるな。彼女らは戦時の性奴隷だった。731部隊を忘れるな」などと英語で発言していたようである。すぐさま、各方面から批判が殺到したという。当然のことだろう。ある識者は、取り返しのつかないNHKの大失態と述べ、国会でこのことを厳しく追及すべしとしている。まったく同感である。そしてほぼ同じ頃にまたまた中国人による靖国への落書きがあったようである。このような事案が次々と発生するのは日本政府の姿勢を試しているとしか思えない。
そもそも中国籍のスタッフがNHKにいること自体が謎である。ちょっと調べてみたら、NHKが番組スタッフを外部委託しているらしいことがわかった。その際、きちんとした調査がなされているのか、どういうチェック体制になっているのかわからないが、実に甘い対応しかなされていないのでは。大体、NHKには多額の予算が毎年国会審議を経て承認されていることは聞き知っていたが、今年度の予算は約6000億円を超えるようである。こんな額のほとんどを受信料として国民から徴収して」運営費を賄っているのがNHKであることはご承知のとおり。しかし、忘れてならないのは、ラジオ・テレビの国際放送は少額とはいえ国からの交付金が支出されている。国家による交付金まで支出して運営されているNHKが中国籍スタッフを抱えていること自体唖然とする内容ではある。NHKは民間放送と異なり放送法第70条に基づいて、国民の生命財産・公共の福祉・文化の向上・不偏不党を柱として業務をしている法人であり、国民の不利益にならないよう襟を正して仕事をするのが使命なのではないか。となると、日本の枢要な様々な組織にもこのような事例があるのではと勘操りたくもなる。そういえば、いつだったか忘れたが、日本の治安を維持する重要な機関の一つに法務省管轄の公安調査庁がある。そこに中国スパイがいるのではというニュースが一時世間を騒がせ問題となった。
どういうことかと言えば、少し長くなるがこの機関の主要な任務は、「破壊活動防止法」及び「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法」に基づき、暴力によって自らの主義主張を実現しようとする破壊的団体や無差別大量殺人行為を行った団体などについて、調査・情報収集をおこなうことである。このように、社会の安寧秩序・国民の安心に直結する使命を担う調査員のなかに中国のスパイが暗躍しているのではという疑惑である。「まさか」そんなこと? と思ったが。この問題を提起したのは、元日中青年交流協会理事長であった鈴木英司氏が自身の体験を綴った著作のなかで明らかにしているようだ。
「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもので、小説でも書けないことが国家間で実際に展開しているのか。鈴木氏は日本のスパイとして中国で6年(実質2279日)の刑期後釈放されたようでる。拘束理由は中国の重要な情報を日本に流していたということか。2015年から今年に至るまで、17人の日本人が中国当局に拘束されている。理由はほぼ同じ。中国の重要な建造物に傷をつけたとか、落書きをしたとかではなく情報活動の疑いで拘束。中国国内に進出して企業活動に携わっている企業人だけでなく、大学の教授なども拘束されているようで、拘束理由がいかにもこじつけのものが多いのではないか。拘束されて以後の消息が明らかにされないケースもあるようだ。もっとも最近の中国当局による日本人拘束事例は、去年春にアステラス製薬の50代の社員の例である。どういった容疑なのか拘束理由がはっきりしないのだ。
日中友好を謳いながら実際は中国のペースで事が運ばれているような気がしてならない。共産主義体制につきものの密告・監視といった暗黒の体質がいかんなく発揮されているのか。前述の鈴木氏は、公安調査庁の中に、中国に情報を流す日本人スパイがいるのではないか、そして、スパイ摘発を統括する「国家安全部」という中国の機関は日本の公安調査庁を「スパイ機関」とみなし、その公安調査庁から協力者リストが流出している可能性があると考えているようだ。ことの真相は闇のなかである。日本にはスパイを取り締まる「スパイ防止法」もないが故に、おそらく日本国内で暗躍している本物のスパイは数多いるのではないか、中国だけでなく多くの国のスパイが。なにしろ昔から日本は「スパイ天国」という有難くない名を頂戴している。たぶん、日本国内で多くのスパイが蠢き、やりたい放題のスパイ活動をしているのは確かなことだろう。「スパイ防止法」がない故に、外国のスパイを日本では摘発することは困難であって、外国においてスパイ容疑で拘束された日本人とスパイ交換をすることも交渉することもできない情けない実態がある。戦時の捕虜交換と同じで、現在戦時下にあるウクライナとロシアは捕虜の交換をおこなっていることはご承知のとおりだ。
「スパイ防止法」やそれに付随する法の整備がなされていない日本政府ができることは、拘束された日本人の釈放を、相手国に「お願い」するしか手が無いという、なんともいやはや(ここでも、いやはやなんとも君)情けないことになっているのが実情である。こういった日本国の実情を、総裁選に出馬表明している自民党議員諸氏は如何お考えか?日本人を拘束するのに理由はいらない、はっきりさせない相手国は日本政府が嘆願してきたら、日本の足元を見て恩着せがましく無理な要求をしてくることも十分に予想されるのである。多くの日本人が拉致され、ごく一部の日本人が一時帰国した時に、莫大なお金が拉致した相手国に身代金かなんか知らないが渡り、その資金で核開発を進めたとかどうとかの疑惑もいまだ燻り続けているのが実情である。
そんな馬鹿げたことを日本政府はしてないとは思うが、もしも、これが事実であれば、日本は日本を滅亡させるような、実に「いやはやなんとも君」のことをやっているのであり、歴史上取り返しのつかない大失態どころの騒ぎではない、後世の人類が「歴史上、最大のバカ国家」と永久に罵倒され語り継がれるであろう愚かなことをやったことになり、日本の国としての名誉は永遠・永久に地に堕ちたことになるのである。少し、口でなく筆が滑ってしまったかも知れぬが、日本の国の将来を危惧するが故の、高齢者の戯言として許して貰えれば嬉しい限りである。
ついでと言っては語弊があるやも知れぬが、どこかの国の駐日大使による「日本人は火の中に」発言・靖国への度重なる落書き・東京電力のALPS処理水(国際原子力機関・IAEAは承認)を核汚染水として批判して日本の魚介類の全面的輸入禁止、言いがかりこじつけとしか言いようがない日本人の拘束・起訴・長期間の拘留、尖閣周辺海域への度重なる領海侵犯、日本経済への重大な脅威である南シナ海の支配化推進などなど(ヴェトナム・フィリピンとしばしば小競り合い)、これが世界の安定発展に責任ある、国連の常任理事国の行状なのである。ぼちぼち日本もこの国との付き合いは、根本的に考え直す時期にきているのではないか?こんなに世界から嫌われ者になっている国とも親密な付き合いをこれからもするとすれば、日本に対する世界の目も変わるののでは?
1972年に日本はこの国と国交正常化して以降、この国に対して金銭面・技術面で多大の貢献をし、特に1978年当時、この国の最高指導者で「黒猫でも白猫でも鼠を捕る猫はいい猫だ」で有名な鄧小平氏が来日して、日本にこの国の経済の発展に協力を要請、日本政府・経済界を挙げて協力した経緯がある。もちろん、日本の協力の背景には、14億ともいわれたこの国の魅力的な「巨大市場」があったことは当然である。毛沢東の「大躍進政策」の大失敗、それに続く「文化大革命」によるこの国の国内大混乱による経済的困窮があったことは歴史の事実である。1989年の天安門事件で、この国政府の人命を顧みない弾圧は世界から厳しく批判されたが、日本政府は天皇訪問を実施して経済発展に協力したのである。その結果、この国は経済的に躍進し、世界2位の経済大国になり、やがて近い将来、米国を抜いて世界最大の経済強国になるともいわれたのである。その頃からこの国の態度は力を背景に威丈高となりはじめ、「一帯一路」構想を掲げて世界制覇に乗り出し、その実現も可能とみなされ始めた頃に、風向きが変わる世界的パンデミックが起きた。コロナの大流行で世界は大混乱になった。そもそも発生元はこの国ではと思われたが、この国は発生元を究明することに頑として協力を否定、この国を見つめる世界の国・人々の意識も大きく変わり始めたのが実情だ。
この国のコロナへの対応・対策は世界の主要な国々と異なって、「都市封鎖」までして徹底的に押さえ込もうとしたが、異様なこの国のやり方は世界の人々の意識も変えて、この国に進出していた多くの国々の企業のこの国からの撤退、資金の引き上げ、投資の停止などから、この国の不動産市場が行き詰まったことから経済の停滞が深刻化しているとの報道が多い。経済の専門家ではないので私はよくわからないが、ドラえもんのジャイアンように振る舞ったことの代償は小さくないのでは?一説によると、この国の若者の就職率は報道されている以上に悪化しているようである。日本の政府・経済界はこの国とこれからどう向き合うのか、本当の見識・哲学が試されているのでは。
前回に引き続いて、ローマのことを述べるつもりであったが、一言発したいというニュースが駆け巡って、時事問題への論考となってしまった。次回(9月末)は、ローマについて論じてみたい。ということでここらで筆を擱くことにしたい。
日本よ、何処へ 第3回 その1
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年07月26日
前回の稿(第2回)を書いているときは、これからの日本国をある意味占う首都東京の顔を選ぶ都知事選の序盤戦で、誰が都知事になるか未知数であったが、予想通り現職の知事が3選を果たして今後の都政を担うことになった。対抗馬としてマスコミで大きく取り上げられていた、立憲民主党出身のソ蓮舫は、広島の安芸高田市長だった人物の後塵を拝して3位で落選という結果になった。この結果に、国籍がはっきりしない人物よりも、学歴がはっきりしないほうがまだマシというのが大方の正直な感想ではないかと思うが如何か?
敗戦の原因は様々に取り沙汰されていたが、私は少し異なった見方をしている。というのも、彼女が都知事選に出馬するよう背中を押していた人物がこれまた、すごい人物であったようだ。ある報道によると、ソ蓮舫の背中を押していた人物とは、現在は立憲民主党の代表代行兼参議院議員で、この人物は最初に国会議員選挙に出馬したときに「国会議員」でなく「国壊議員」になるために立候補したということらしい。この報道が嘘か誠か確認する気もしないが、もし本当だとしたら、狂気の沙汰としか思えないし、このような人物が代表代行している政党とは国を壊すことを目標とする政党か?もしそうであるならこの政党は論外で議論の余地なし。繰り返すが、もし本当だとしたら、いやはや恐ろしい話だし、底辺のところで、ソ蓮舫さんにマイナスの影響を与えたのではと思うが如何か?ともあれ、このような報道があること自体情けないし、立憲民主党の皆様ははどうお考えか。さらに、このソ蓮舫の選挙運動や演説に共産党が随分と前面に出ていたようだが、これも落選の大きな原因だったのではと推測する。換言すればこの女性候補は国籍問題に加え、国を壊そう?とした人や未だに科学的社会主義(志位共産党前委員長によれば、事実から出発して法則を見出すことらしいが、本当に事実に立脚しているのか根本的に疑問があるが、ここでは哲学的論争になるので保留)なるものを党存立の基盤にするまことに意味不明の共産党の応援をバックにした人物なのかと訝しく思われた気がする。このような人物が百万票以上を獲得したこと自体、それだけ投票する人がいるわけで驚きを禁じ得ないが。やれやれ次は自民党総裁選がどうなることやらと思っていたら、とんでもない衝撃のニュースが。
都知事選から1週間後、ところ変わってアメリカの大統領選。共和党候補のトランプ前大統領の選挙集会で狙撃事件が発生。狙われたのはもちろんトランプ前大統領。この報道に接して咄嗟に思い浮かんだのは安倍元首相が、私の暮らす奈良の地で2年前の同じ7月、凶弾に斃れた事件。トランプ氏は右耳を負傷したが、命に別条はなかったとの報道。いずれにしても、暴力で物事を決めようとすることは民主主義と根本的に相容れない。アメリカ大統領選はどうなるのやら。この時点で、どうやらバイデン大統領は大統領選から撤退して立候補せず、副大統領のハリスを後継者に指名するという報道があった。日本にも直接的に最も影響がある国なので、無関心ではいられない。11月、大統領決定まで喧しい選挙戦が展開されることだろう。
アメリカという国は幕末ペリー来航以来、好むと好まざるに関わらず我が国に最も影響を及ぼして来た国で、現今言われるように分断が今後もより激しくなるのか、それとも緩和の方向に進むのか、次の大統領が誰になるか、どのような政策を採るか、いずれにせよ我が国の運命に決定的な影響を与えることになる。ウクライナにロシアが侵攻して2年半になろうとしているこの時期、平和の方向に進むのか、それとも混沌状態がこの後も続くのかまったく不透明である。ウクライナだけでなく、パレスチナでもイスラエルとハマスの戦闘状態は持続しているのである。アメリカの力が昔日の面影は失われたとは言っても、まだまだ世界一の経済力・軍事力を有するアメリカ次期大統領の政策は、我が国のみならず世界の趨勢に決定的な影響を与えることは間違いない、パックス=アメリカーナである以上。
前書きがまたまた長くなった。今回の稿で私が書こうとしたことは都知事選やアメリカ大統領選ではない。もちろん政治に関係することではあるが、時代がまったく異なる。前回の稿でソ連の消滅を取り上げた。歴史的に、数多の国家・王朝が生成・消滅した例として、戦後のソ連邦を挙げた。この国とも我が国は幕末以来、因縁浅からぬ関係であり、明治になって干戈を交えたことも述べた。アメリカのペリーは幕末に来航して開国を強硬に要求したが、日本の領土を犯すようなことはなかった。対照的にロシアは我が国の領土を侵害する行いをしたことがある。幕末、ロシアは日本の対馬を占拠したことがあり(1853年のクリミア戦争後)、前回触れた日露戦争の淵源になった出来事である。1861年の2月から8月にかけて、現在の長崎県・対馬の浅茅湾の芋崎を軍艦(ポサドニック)によって占拠し、ここに兵舎・工場・練兵場を建設、租借権を強請して占拠したことがある。幕府は対応に苦慮、困り果てていたところ、思わぬ助け舟を得て胸を撫でおろしたことがある。クリミア戦争でロシアを敗北させた英国がロシアに圧力をかけてようやく退去した事件であり、一部とは言え日本の領土が一時期植民地状態に陥ったことがある。この事例からも明らかなように、『力を背景』にした政治体質は王朝や政治体制が変わった現在も続いており、今後も変わることはないことを肝に銘じる必要がある。現在も我が国の固有領土である北方四島を占拠したままであり、この国の体質はなんら変わっていない。これと同じことを今ウクライナに行っているのであり、隣国にこのような懲りない国があるのはなんとも厄介な地政学上の大問題である。
私がここで述べたい事は地政学上のことではない。歴史上のことである。つまり、『力』に頼った強引なやりかたで建国された国や王朝で長く持続したり、滅亡しなかった例は古今東西殆ど無いということである。どのような強力な国家もいつの日か力が衰え、他国や他民族の攻撃を受けたりあるいは自ら分裂したり、侵入を許してあっけなく滅んだ例は枚挙に遑がないように思う。力はいつか必ず衰退することを歴史から学ばなければならないのに学ばない愚かさ。換言すれば『腕力』に永遠はないということに尽きる。力は力を呼び、その力によって滅ぼしたり滅ぼされたり。つまり、歴史は私たち人類に、力による支配に永遠はないことを『歴史の法則』として教えようとしているのではないか。つまり、この力の行使による他国、他民族の征服に永遠はないという『歴史の法則』が厳然として存在するのではないかと考えるが如何。いずれ、どうして力を背景にした政治が世界を牛耳り、紛争・戦争がこの地上から無くならないのか、いつの日か人類は戦いに疲れて戦争のない世界を希求するようになるのか考えてみたい。とは言いつつ、すべての力の行使を否定するつもりはない。力を必要とすることは多くあるからだ。
前回の稿で戦後のソ連邦を挙げたが、滅亡した理由は世界の覇権を米国と争って身の丈に合わぬ政策を遂行したことに尽きると考える。現在でも、プーチンのロシアは経済力で米国の十分の一以下しかない。当時はそれ以下の経済力しかなかったのでは。そのソ連が、宇宙開発・核兵器の開発など一時期は米国を凌ぐ勢いを見せていたが、途中で息切れしやはり長く続かなかったのである。つまり実力以上の無理をしたのである。国土は米国をはるかに超える広大さ、地下資源も豊富であったが、共産主義という政治・経済体制のソ連は、労働生産性という点で自由主義経済体制に比べて致命的な欠陥を内包していたように思う。もう少し掘り下げて考えたら、共産主義哲学に根本的誤謬判断があるのではないかとも考える。そして、1979年からのアフガン侵攻は約10年にも及んで体力を消耗し、ソ連の崩壊を早める大失敗策だったのでは。それと同じ轍をプーチンのロシアは今現在踏んでいるように思えるが。僅か数日で終了する予定が2年半近く経った現在も消耗戦を続けて、たとえ勝利したとしてもその後遺症・犠牲は後々ボディブローように効いてくるのではと考えるが如何に。いずれ、共産主義の思想・その根拠になっている唯物論哲学についてはどこに根本的問題が潜んでいるのか哲学的にじっくり考えてみたい。なにしろ、我が国の隣には「共産党一党独裁」の看板を掲げている国があるから。そして、現ロシアやお隣の共産主義国家を日本のマスメディアはどういうわけか「権威主義国家」と呼んでいる。私にはこの呼称が大きな違和感となっている。現ロシアのプーチン政権は、一応民主主義の看板を掲げてはいるが、その中身はとてもではないが「毒饅頭」そのもののような気がするが。
戦後のソ連邦について書きたいことはまだまだたくさんあるがここら辺で区切りをつけて、今度は戦後から一転して、人類史の中でも燦然と輝きを放って多くの人を惹きつけて止まない『ローマ』を考えてみたい。『永遠の都ローマ』、『ローマは1日にしてならず』、『パックス=ロマーナ』のローマである。古代の地中海世界のみならず現在の西ヨーロッパ世界にまで版図を広げたローマ。ここまでの領土を拡大することができた要因は何だったか等々興味は尽きない。ローマは最初は小さな都市国家に過ぎなかったが、強力な敵対勢力に勝利したことで勢いが加速したことは間違いない。その相手とは、当時地中海貿易で繁栄していたフェニキア人のカルタゴである。そのカルタゴと地中海世界の支配圏をかけて戦ったのである。ポエニ戦争という、古代では最大規模と言える激突であり、宿命の衝突であった。この戦いに勝利した方が地中海世界の覇権を握り、地中海貿易の莫大な利益を背景に大きく発展することが約束されていたとも言えよう。このポエニ戦争は紀元前の昔、前後3回にわたって行われたようだ。ローマは危機に陥りながらもよく耐え抜き、特に第2回の戦いでハンニバル率いるカルタゴに勝利したことでほぼ帰趨は決定的になったようである。カルタゴとの激闘・死闘を制したローマは大きな自信を得て二回り三回り皮が捲れて大きくなっていったことは確かである。何事によらず、耐えることは成長するためには必要不可欠なことか。耐えるだけでなく失敗することも成長(成功)のおおきな一里塚ともなるように思える。
やがてローマは紆余曲折を経てカエサルの時代に帝国の基礎固めはほぼ完成していたようである。このカエサルはシェークスピアの悲劇で有名なあのジュリアス・シーザーである。「来た、見た、勝った」と評される政治的・軍事的天才だったカエサル。共和政を重んじるローマの伝統を破壊する独裁者とみなされたか、ローマ発展の最大功労者が事もあろうに暗殺される悲劇の主人公となってしまったと歴史は教えている。「ブルータスお前もか」、これは死に際にカエサルが言った言葉としてあまりにも有名であり、信頼していた友人から裏切られたときによく使われる言葉である。確かにカエサルは、ガリアを平定して以後、様々な政敵を破って権力者として君臨し、事実上のローマ初代皇帝の地位を手に入れていたようで、皇帝然の振る舞いが災いとなった感は否めない。カエサルの言葉として「賽は投げられた」も有名である。これは一旦決行した以上もう後には戻れないときに使う言葉であり、ルビコンを渡河する際カエサルが発したと言われる。
政治家ほど嫉妬深い人種はいないとよく言われるが、カエサルの暗殺も妬みや嫉妬が根底にあったかも。カエサルの、他に追随を許さない人気と権力の集中は、他の政治家の嫉妬心に火をつけた可能性が高く、共和制の伝統云々は追っかけ理屈かも。いずれにせよ、カエサルの時期にはローマが帝国としての輪郭をはっきりとさせた時期であることは間違いないことだろう。といっても、カエサル以前からローマは混乱状態で、カエサル亡き後に混乱状態は拡大、彼の養子であったオクタヴィアヌスが後継者となりようやく混乱を平定、ローマ帝国初代の皇帝になって地中海世界により強固の基礎を築いた。元老院はローマの混乱を平定したオクタヴィアヌスを高く評価して、尊厳者の称号(アウグストゥス)を彼に送った。オクタヴィアヌスはローマの伝統である共和政を重視する姿勢を見せながら独裁に近い政治を推進したようだ。父の暗殺の轍は踏まぬように、細心の注意を払いながらの皇帝政治だったのではないか。
オクタヴィアヌスによる統治からをローマの安定成熟期とすれば、そこに至るまでの胎動・誕生・生成発展期は実に長期間に及んだ。そもそもローマはロムルスとレムスの双子の兄弟の狼によって育てられた物語から始まる。「ローマ」という都市名は兄のロムルスに由来するようだ。紀元前753年4月21日に建国されたと神話は伝えている。この双子の兄弟が狼に育てられた経緯は、ティベル河畔に置き去りされていた双子を、雌の狼が見つけお腹を空かせていた兄弟に乳を飲ませて育てた物語である。どこの国・民族にも建国、民族発祥の物語はある。もちろん、我が国にも建国神話はある。ローマ建国神話の信憑性はともかくとして、ごく小さな都市からローマは始まったということだが、建国された紀元前753年といえば日本でいうと縄文末期ににあたる。それから約7世紀の時を経てローマは安定成熟期に入ったということになる。
ローマはフェニキア人のカルタゴとの死闘を経て実力を身につけて地中海世界の覇者となったことは先述したが、征服され統治される人々による度重なる反乱にも悩まされ続けたようである。古代から中世にかけて、力づくで征服された国・民族・人種は征服者の奴隷になることは宿命づけられていたことは歴史の常識であった。地中海世界において大規模な奴隷使役で高度な文明を築いたギリシャ文明もその例外ではなかった。奴隷による反乱は頻発し、ローマも奴隷反乱が日常茶飯事のように発生した。小さな反乱は記録に残っていないが、大規模なものは記録上3度発生したようである。
ローマで発生した最初の大規模な奴隷反乱は、属州のシチリア島で発生したようだ。紀元前135~132年に発生したこの反乱は、奴隷使役で農業・牧畜が発達した「シチリア島の臍」と呼ばれた要害の地エンナで発生、混乱はローマに、さらにギリシャにも飛び火し、ローマは鎮圧に手を焼いて4年をかけてようやく沈静化したと言われている。先述したように、高度なギリシャ文明は奴隷使役の犠牲の上に成立した側面は否定できない歴史上の事実であって、有名なアケメネス朝ペルシャとの戦争においても、奴隷労働で得られた収入で軍事費を賄ったようだ。ギリシャがペルシャに勝利したサラミスの海戦でも、海軍力の整備にラウレイオン銀山収入が充てられたことが資料として残っているようだ。(テミストクレスがアテネの民会にはかって承認されたらしい)
古代ギリシャのポリスでは、一般市民は家事労働のための家内奴隷を2~3人所有していたようで、銀山から掘られる銀を鋳造してつくられた銀貨を使用する貨幣経済が確立していたことがわかっている。この貨幣流通の経済はその後のローマ社会でも同様であって、時代が下るにつれて貧富の差が次第に顕著になったようだ。ローマではその後、奴隷は単に労働だけでなく、命をかけて猛獣と闘わされたり、奴隷同士が剣で戦う剣奴が養成された。剣奴を養成する養成所まであったという。どうして剣奴まで養成されたのか、理由はローマ市民が強く求めたのだ。猛獣と剣奴の戦い、剣奴同士の戦いをローマ市民は「娯楽」として為政者に強く求めたのだ。俗にいう『パンと見世物(サーカス)』だ。大規模な奴隷反乱が鎮圧され社会が落ち着いてくると、市民は刺激を求めるようになる。しかも段々と強い刺激を。その要求に応える政治を推進する為政者が市民の人気を得ることになる。
ローマはまことに小さな、「吹けば飛ぶ」ような国家から出発して多大な犠牲を払って地中海世界の覇者となったからこそ、それだけの代償に見合うような刺激を求めたのかとも思う。カエサルという軍事・政治の天才を得て帝国としての基礎固めをした後しばらくは、オクタヴィアヌスやその後に優れた皇帝が輩出して様々な文化を花開かせたが、しかし、その中で帝国を蝕む矛盾は確実に醸成されていたのではないかとも思う。それはどのようなものだったか、さらに先述した以外の奴隷反乱、「権威主義国家」という呼称、またローマ発展の最大の理由等々は次回(第3回その2)に考察することにして今回は筆を擱くことにする。次回(第3回 その2)は8月後半を予定している。そして、共産主義については9月(第4回)を予定している。
日本よ、何処へ 第2回
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年05月06日
前回の稿で私は、現今の日本は国の存立そのものが極めて危機的な状態にあるのではないか、ややもすれば国を失いかねないのではないかとの思いから、私見を縷々述べた。戦後79年目に入った日本は内外ともに問題山積、しかも問題が小手先の対症療法では対応できないほど重症化しているように感じる人は多いと思う。どうして国の存続を左右するようなことになってしまったのか、まずその遠因を探し出し、次にどうするかの遠大な展望が何としても必要になる。先ず、遠因(原因)を探し求め、患部は剔抉しなければキルケゴールの著作ではないが、『死に至る病』となる。どれほどの長さになるか予想がつかないが、何かの参考になればとの希望をもって少しずつ提言をしてゆきたい。日本という世界でも稀有な国の存続、発展を心から願うからである。
私たち国民の凡ゆる活動は、現時点の国際的政治環境下では、国家が揺るぎなく存在していることが大前提であることに反対する人は少ないと考える。国民が安全に安心して暮らせる国家は何としても必要だ(もちろん、国家なんて必要ない、国家そのものが悪と考える人もいるだろう、無政府主義者もいることだし)。そういう意味においては国家の存在自体が国民にとって最大の福祉と言っていい。但し、その国家が国民の生命・財産・幸福を、或いは、国民の自由や人権を顧みないようなものであれば、国家そのものをやりかえる必要性があるだろうし、そのような国家は論外だ。家を建ててみたが、どうも住み心地がよくない、使い勝手が良くないと思えば・リフォーム、リノベーションする必要性がでてくるのと同じことだ。最初から完璧なものなどあり得ないから、少しずつ手直しをしなければ住民の利益に反することになる。どのような国家、どのような政治・経済体制がいいのか悪いのか、古代ギリシアの昔から議論されてきたし現在もされているしこれからもされるだろう。実に多くの哲学者、政治・経済学者、歴史家、政治家が研究し提言してきたが現在にいたるまで理想とするような国家は歴史的に存在したためしはない。それどころか、同じ国家が今日まで滅亡せずに存続したためしはほとんどない。
過去から現在まで長い人類の歴史を眺めれば、多くの国家や王朝が勃興・滅亡を繰り返してきた。一体どのくらいの国家・王朝が盛衰を重ねてきたのか。参考までに述べると、先の大戦からわずか78年しか経っていないのに多くの国が消滅しており、その数は驚くほど多い。2012年に刊行された、吉田一郎著『第二次大戦後崩壊した183ヵ国』という書物がある。この183ヵ国と聞いてどういう感想を人は抱くだろうか。この183ヵ国には、小さな首長国や藩王国も含まれるということらしい。消滅するに至った経緯は各国それぞれであるが、この数字は国連加盟国に近い数字だ。僅か80年足らずでこの数字だから、人類の長い歴史からすれば推して知るべし。
ではどのような国が先の大戦後消滅したのか。代表的な例を挙げると誰でも知っている国がある。そうソビエト社会主義共和国連邦だ。2024年2月末にウクライナに軍事侵攻し今も戦火を交えているロシアの前身だった、略してソ連、先の大戦後に米国と覇権を競った世界最大の国土を有する国家だった。そのソ連になる前の国名はロシア。ロマノフ王朝が支配する国だった。承知のようにこのロシアと日本は因縁浅からぬ国同士だ。その理由はいまさら書くまでもないことだが、我が国はこのロシアと1904年~05年(明治37~明治38)にかけて干戈を交えている。そう、「日露戦争」だ。
結果的にこの戦争は日本の勝利で終わったが、この戦争は凡ゆる意味で欧米白人国家に大衝撃を与えた戦争といっていい。その理由は、この戦争まで有色人種国家が白人国家に勝利したことなどなく(というより、白人国家に有色人種の国家が戦いを挑むこと自体有り得えないと思われていた時代)、アジアをはじめとする有色人国家にとってみればにわかには信じられない勝利で、白人国家からすれば衝撃以外の何物でもなかった戦争といっていい。有色人種の国家は白人国家の植民地として長く支配されていたが、その構造に風穴を開けた戦争であり、その後の世界に与えた影響は計り知れないほどのものだったと言っても過言ではないだろう(世界史を書き換えた?)。ここではその点には詳細に触れないでおく。
ただ、その勝利が実に微妙で、陸上の戦いは薄氷を踏むような勝利(奉天会戦など)であったのに対して、海上での戦いは、歴史上これほどの勝利があったかというほどの勝利だった、そう「日本海海戦」である。この戦いで、日本連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を完膚無きまでに叩き潰したものの、ここまでが日本の国力の限界であったことはよく知られている。したがって、陸上・海上の戦いを合わせると、日本にはもう戦う余力は、ほとんど残ってなかったといっても過言ではない。勝利したものの日本の損害も甚大で、このようなギリギリの勝利は、その後の日本の進路を決定的に誤らせることとなる。というのも、この戦いに協力してくれた英米との関係が悪化していき、それは日本の大きな不幸の始まりとなったからである。英米との関係悪化は、戦争後の満州権益に関する約束を日本が反故にしたことが最大の原因であるが、このことに今は詳しく触れない。結果的に、昔から云う「吉凶は糾へる縄の如し」となったことだけは歴史の事実だ。
一方、敗戦国となったロシアも、国内的に大問題を抱えながら戦争を遂行していたのである。それは、1905年から始まったロシア第一次革命である。発端はよく知られているようにこの年1月、「血の日曜日事件」が起き、この事件をきっかけに市民のロマノフ朝皇帝への信頼が吹き飛んでしまい、本格的なロマノフ朝打倒の運動(革命)が始まったのである。このような国内騒擾を抱えながらロシアは日本と向き合っていたのであり、日本にとってこれは幸運なことだったが、もし、ロシア国内政治が正常に機能していたら日本の勝利はなかった可能性が高い。もちろん、歴史に「イフ」は許されないが。
以上、明治以降、日露関係は因縁浅から関係にあり、日中戦争中には再び干戈を交えている(ノモンハン事件)し、先の大戦末期も両国に戦闘はあったが、そのことはさておき、日露戦争後のロシアは第一次世界大戦中の1917年に3月革命・10月革命が起こってロマノフ朝は倒され、人類史上初の「共産主義国家」=ソビエト社会主義共和国連邦として再出発することとなった。最高指導者はレーニン、後継者がスターリン、その後、フルシチョフ、ブレジネフと続き、戦後の世界の覇権を米国と激しく争い、東西冷戦の一方の主役であった。
米ソ両国は超大国として世界を動かしたが、そのソ連が20世紀の終わり近くに終焉を迎えたのである。それ以前に、「ベルリンの壁崩壊」に続いて東西冷戦の終結を宣言したマルタ会談があり、その後ソ連の終焉となった(1991年12月)。それにしても、あのソ連があっけなく消滅したのである。その後に現ロシアとして再出発して現在に至っている。ソ連崩壊後の国民は政治的・経済的大混乱に陥り塗炭の苦しみを味わうことになったのである。なぜ、あれほどの大国が崩壊するのか、その理由は様々にあろうが、ここでは本格的に立ち入らない、それが本題ではないからだ。ただ、一つ言えることは米国と凡ゆる点で激しく争ったことによる経済崩壊があったことは紛れもない事実であり、過去も現在もこれからも国家にとって経済の舵取りがいかに重要であるかの証左だろう。これほどの国でも崩壊するということ、そして、この崩壊と前後して、東ドイツ、チェコスロバキア、南ヴェトナムが地図上から姿を消しさらに、ソ連の影響下にあったポーランドやルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、バルト三国などが政治体制を変えてソ連圏から離脱、それまで敵対していた西側の一員となった。このように、西側の勢力圏の拡大と、ロシアによるウクライナ侵攻とは深く関連する。
つまり、国家はこれからも生成消滅を繰り返すのだろう。歴史はそのことを厳然として物語っている。時代とともに国際関係、人々の価値観や人生観や生き方も変わるだろうし、国家の存立条件もさらに多様化し離合集散を繰り返すのだろうし、戦いはなくならないのだろう。それは避けられないことであるが、自分たちの暮らす国がもし消滅したらいったいどういうことになるか、真剣に考えないといけない時期に来ていると考える。政治・経済は言うまでもなく、安全保障・教育・食糧の自給率に災害対策、人口減少と対をなす少子高齢化問題などなど問題は山積で、日本は待った無しの状況にある。つまり、どんなに痛めつけようと国は失くならない、滅びないなんて考えていたらとんでもない危険なことであろうと考えるが。いや、もしかすると日本国を亡きものにしようと考えている人がいるかも知れない。あるいは、根本的に日本国を造り変えようと考えている人がいるかも知れない。日本においては、言論・出版・表現の自由は憲法で保障されているから暴力を伴うもの以外は許されるだろうが。選挙で国のあり方を決めていくというのが最も民主的なやりかただろうが。しかし、これも安心はできず。今の時代なんでもありで、凡ゆる方法でもって選挙に介入し、フェイクニュースを流しまくって世論を誘導することも十分に有り得る。地下に潜伏して邪悪な活動を企んでいる勢力がいるかも知れない。幸いなことに、日本国民は国を失った経験がないので、国は存在して当然、亡国ということ自体何か他人事のようでピンとこないかも知れないが、国失った民族がどれほどの悲劇を味わったことか。くどいようだが亡国の経験がない日本国民は本当に幸せなのである。幸せ過ぎるのかも知れない。
よく、人は「失ってはじめてそのものの価値を知る」という。価値を、重要性を、かけがえのないものの価値を。つまり、今後ますます国民一人一人の選択が重要になる。日本は今大きな岐路に立っているのである。戦後79年目に入った今年、どういう選択をしていくか?そう言えば、日本の首都東京の顔を決める都知事選が迫っている。どうなるのやら。小さな選挙ではない。誰が都知事になるか、その後の国政に大きな影響を与える選挙だ。海外も注目している。学歴詐称(AIゆりこ)VS国歴詐称(ソビエト蓮舫)の戦いなどとマスコミは大騒ぎをしているが。どこかの国の駐日大使が、台湾問題に日本が介入すれば「日本の民衆が火の中に連れ込まれる」という、実に不穏当な、下品な発言を先月20日にしたようだが、その大使館は日本の心臓東京にあることは言うまでもない。しかし、そのような発言に「基本的に同意する」と賛意を示す日本の元首相がいる国はどうなるのやら。ただただ、唖然とするだけだ。
新聞報道によると、その国の大使が発言したのはある座談会のようで、同席していた日本の元外務関係者が10人いたようだ。しかし、大使の発言を窘める人物はいなかったとのこと。このような現実を突きつけられると、既に私たちは「国を失っている」のかも知れない。我が国の官房長官は「在京大使の発言としてきわめて不適切であると考えており、直ちに厳重な抗議をおこなった」ということだが。先ほどの元首相も同席していたようだが、この元首相の所属していた政党はどうしたのか、どう考えるのかお聞きしてみたい。国家の主権を脅かすような行為をする自民党のK議員(前稿)、同意発言をしでかす元首相、どうなっているのか。日本国の存立自体が足元から揺れている。大きな地震で大地が足元が揺れているのと同じ構図か。背筋が寒くなるような思いに駆られるのは私だけか。否、そうでもあるまい。
この駐日大使の暴言が報道されてから後に、またまたとんでもない出来事が発生した。この駐日大使の国の青年が来日後、東京九段にある靖国神社の石柱にスプレーで「トイレ(toilet)」と落書き、さらに放尿までして帰国との報道があった。信じられないことは、この行為に対して、政府が、首相が、抗議なり、警告をおこなったのか、どうも有耶無耶になったようである。日本国がここまで軽視され、侮蔑的な行為をされても何にもしない政府、外務省、今後、このような出来事はさらにエスカレートするのではないだろうか?このままだと日本国はいいように利用されるだけではないのか?どうしてこのような国になったのか、その背景は何なのか?既に、国家としての最低限の誇りまでも失ってしまったのか?
今回はここまでにして、次回(7月)は、以上のような状況に至った歴史的な経緯、次に古代ローマを取り上げ、その繁栄と没落、そして、国を失った民族の悲劇、さらに紙数が許せば著名な哲学者・思想家の著作やその思想なども紹介しながら私見を述べてみたい。
日本よ、何処へ 第1回
登利 昌記(日本文明研究分科会 主任研究員)
2024年05月06日
新年度を一つの機会に、拙文ながら文章を書こうと思い立ったのは次の理由からだ。それは長い我が国の歴史を俯瞰するに、現下の内外情勢は日本国そのものが亡国・滅亡の淵に立っているのではとの危機感を強く肌で感じるからである。元来、文章を書くのは苦手で、読みにくい箇所や、あるいは疑問や誤った認識を述べることは多々あるのではと考えるので、その際は厳しい批評をいただければ幸いである。何の知恵も力もない一市井人の祈りに近い願いを込めた文を読んでいただければこれ以上の幸せはない。
先の大戦から78年の歳月が過ぎた。これは日本人の平均寿命よりは少し短いが、ほぼ等しい年数と言っても良いだろう。先の大戦も明治維新からちょうど78年で終戦になった。つまり、戦前と戦後は同じ年数が流れたのだ。明治からの78年は、戦いの連続であったと言っていいだろう。「日清」に「日露」、「第一次」、「日中戦争」に、「大東亜戦争」とほぼ「戦争の世紀」とも言えるのではないか。最終的に亡国・滅亡の淵に立って「敗戦」で終戦となり、GHQによる7年の占領支配を経て、それから同じ歳月78年が戦後の歳月だ。この歳月で我が国は一体どうなったか。国民にとって明るい将来に向かっての歳月となったといえるのだろうか。政治は、経済は、安全保障は、社会は、教育は、国土は、価値観は、国家観は、国民の価値観・人生観などなど、明るいベクトルになっているのか。おそらく、日本の将来は明るい、希望に満ちているなどと思っている人はまずいないだろうと思うが。
残念ながら近年ますます、目を覆いたくなるほどの惨状になっているのが現実ではないか。日々ニュース報道で目にする暗い内容は目を、耳を疑いたくなるほどで、このままいけば遠くない将来に「亡国・滅亡」の日を迎えるのではないかと危惧する。そう言えば、いつ頃だったかかなり前になるが、アジアの某国の首相だったか誰かが、「過去に日本という国があった」という日が遠からず来ると言ったとか言わなかったとか、ちょっとした物議を醸したと記憶している。この時の発言の狙いは「軍事的敗北」を示唆していたようだが。いずれにしても、こんなことを言われてきっちりと抗議するどころかヘラヘラ笑っている日本の政治家を見て、日本在住の米国出身の親日家がこの国の将来は暗いと諫言していたのを憶えている。
明治からの「78年」は「戦って敗れた日本」であったが、終戦からの「78年」は「戦わずして敗れた日本」になりつつあるのではないか。なぜなら、内部崩壊ともいえる惨状が多くの分野で惹起しているのではないか。つまり、勝手に一人で転んで国という体を痛めているようにも見える。いやそれ以上に国民の意識構造が、価値観が劇的に変質しているのではないか。「日本病」という言葉があるのかないのか寡聞にして知らないが、この日本人の精神的構造が、悪くなる一方のように思えるが、どうだろう。換言すれば、日本人が劣化しているように感じる。
日本人の意識構造が劇的に変質しているとは何か。それはあまりにも個人の権利や利益を主張して、「社会全体の利益」を省みなくなっているのではないか。いや、国民に限らず、その国民の運命に直結する政治担当者である政治家が、私腹を肥すことに専念し、国民には重い税負担を課し、自分たちは脱税もどきのことをしてもお咎めなしでは救いようがない。と言ってもこのような政治家を選んでいるのは国民である。このようなことを言えば、すぐ様、お前は戦前の「全体主義」・「軍国主義」を賛美しているのかと猛烈な批判を浴びることになるのだろうか?しかし、よくよく冷静に考えなければならないことは、「国」あっての個人ではないのか?憲法にあるように、個人の自由・利益・権利は保障されるべきであるが、それも程度問題のように思える。個人の自由や権利や利益の主張は暗黙に国家の存在を前提としている。その前提となっている国家の」存立が今や危機に瀕しているように思うのは私だけではないように思うのだが。
つまり、私が強調したいことは、「国」は保証しろ、責任をとれと裁判でよく争われるのを耳にするが、その国がなくなったら一体誰が保証するというのか。まさかどこかよその国が日本人を保証することはあり得ないだろうに。また、憲法は個人の自由・権利・利益を無限に永遠に保証しているのかどうかということだ。私が感じることは、社会が国が由々しき事態に陥ってるのに、知らぬ顔の半兵衛を決め込み、頬被りをしていていいのか、ということだ。この社会の状態を苦々しく、また疑問に感じている国民は多いのではないかと思う。つまり、サイレントマジョリティーはぼちぼち立ち上がらないと亡国の悪夢を見ることになるのではとも思う。
幸いなことに我が国は終戦から78年間、大きな戦争や紛争に巻き込まれることなく「平和」を享受してきた。実に幸運が続いたのだ。あまりにも長く「平和」が続いたので「平和」が当たり前になって、よく言われるように「平和ボケ」病に陥って感覚が麻痺しているのかもしれない。日本人は昔から「水や空気は只」と思ってきたといわれるが、そうでない(只でない)ことは近年の異常気象や様々なインフラの故障などで、実に復旧・維持に莫大な費用がかかることがわかってきた。と同じように、平和を維持するためには不断の点検と努力が必要なのだと思う。何もせずに向こうから平和がやって来るならこんな楽なことはない。お題目を唱えるだけで平和が実現できるなら苦労は必要ない。「平和」は誰かから与えられるものでも更にない。これまであまりにも「平和」が長く続き過ぎたので「平和」に酔っているのかも。なんであれ、あまりにすぎることは良くないのか。諺に「過ぎたることはなお及ばざる如し」と。
「平和憲法」があるから日本は戦争に巻き込まれることなく、平和を維持できているなどと、どこかの護憲政党は念仏のように唱えていたが、しかし、どこかの国による拉致事件が起こり、未だに解決の糸口さえ見出せていないではないか。「平和憲法」があるにもかかわらず。この事態を護憲政党はどう説明するのか。それどころか、その拉致事件をおこした国は我が国の領海近くにミサイルをしばしばぶっ放しているではないか。一体、何の目的があるのか?意味するところは明瞭だろう。こんな悲劇が起きているにもかかわらず、解決に命懸けで取り組む政治家が現れないのはどういうことか?「平和憲法」があるから紛争や戦争に巻き込まれないなんて今でも本気で考えているのか。「平和ボケ」もここに極まれりか。安全保障については、またの機会に掘り下げて考えてみるつもりだ。
上に挙げた国の他にも、我が国の存立にとって由々しき事態を招いている国もあるのではないか。その国の〇〇局の船舶はしょっちゅう日本の領海を犯しているのではないか。この国とは歴史的にも長い付き合いがあるし、文化の借財も大きいことは特筆しなければならないが、かといって手を拱いていい性質のものでは決してない。この国の船舶による領海侵犯に、我が国の海上保安庁の巡視艇乗組員は、日夜危険で過酷な任務を遂行しているのではないか?〇〇局といいながら本当の姿は、本格的に軍事訓練を受けた者が乗組員とみていいのでは。
どこかの国の護憲政党は「平和」を長年唱え続けてきたわけだから、「拉致事件」を「平和裡に」解決してはどうか?きっと、平和を唱えてきたので「平和裡に」解決する「術」をご存知なのではないか?我が国の領海をしばしば侵犯している国を訪問して「平和」を提案したらどうか?我が国の政権与党議員の裏金問題を追及するのもいいが、上の行動をとったら国民からの喝采は間違いないのでは?(我が国の政権与党については、また、別稿で述べるつもり)
また、先の大戦の終戦時、我が国との中立条約を破棄して、満州に攻め込み、そのどさくさ紛れの最中、北方四島を奪って、未だに返還交渉にも応じず、我が国の領空近くに爆撃機を飛行させて威嚇している国があるが、「平和」を唱えている議員は、この国の独裁者に「平和」の尊さを提案したら如何か?あっそうそう、この国の独裁者は、2年以上も前から隣国に軍事侵攻しているが、一向に終戦の気配がない。2年前の軍事侵攻以来、双方の死傷者は一説によれば30万人を超えるようだ。双方にとって地獄のような状態に終止符を打つべく、今こそ「平和」を訴えに訪問したらどうか?ああ、それからこの国の前身の国は先の大戦の終戦時、我が国の将兵を国際法違反を犯して抑留し強制労働に駆り立てた件については厳しく追及してもらいたいがいかがか。そのような動きはさっぱりないのはどういうことか理解に苦しむ。というより、単なるポーズか?とにかく日本においては、弾圧されることなく政権与党を批判しておけば、一定数の批判票は得られるからか。甘えも矛盾もここに極まれりか。
これら、拉致事件の国・領海侵犯をしばしば起こして我が国との軋轢を増大させている国(この国は我が国のみならず、他の国とも領海問題を引き起こしていて、国連の常任理事国にもかかわらず国連による国際裁判の判決書を「単なる紙切れ」と言って憚らない)・隣国に軍事侵攻している国も国連の常任理事国であるにもかかわらず国連の全体会議の批判など何処吹く風。これら3国はいずれも我が国の隣国なのだが。これらの3国は、国際的な批判もどこ吹く風、蛙の面にションベンだ。いやはや、我が国の安全保障は風前の灯火か。
さすがに、良識ある国民の多くは危機感を持つようになったと思えるが、実はこのような安全保障環境であるにもかかわらず、よりによって政権与党の中に唖然・呆然とするような発言をする議員がいるとはどういうことか?ニュース報道に接して耳を疑った国民は多いことと思う。仮に、この議員をK議員としよう。この議員が主催しているのかどうか詳細は知らないが、どうも再生エネルギーなるものを審議する委員会(タスクフォース)に、経歴の定かでない女性を推薦して、その女性が配布した資料の中に、我が国の領海侵犯をしている国の電力会社の「ロゴ」の透かしが入っていたとか。これは悪夢か?こんな案件をこの政権与党の総裁であり首相である人物はどう考えるのか?不思議なことに、政権与党の議員連中は行動を起こそうとしない。どう思ってるか存じ上げないが、敢えて黙りを決め込んでいるのか?
さらにこの政権与党の総裁・首相は先日、国賓待遇で米国を訪問して、有り得えない大失敗をやらかした。米国大統領との会談後にそれはおこった。会談後の共同記者会見で事もあろうに「同盟国の中国」と発言したのだ。直ぐに訂正したものの後の祭り。昔であれば切腹ものではないか。常日頃、本音で思っていることが口に出たということでなければいいのだが。いやはや。
この政権与党については、次回の稿で私が思っていることを忖度なく書いてみたい。その前にちょっと述べると、この政党の耐用年数・金属疲労はもう修繕のできない限界状態になっているのでは。もうとっくに歴史的使命は終わってしまっているのではと考える。いつまでもこの政党に政権を与けていたら、日本は終わってしまうのでは。この政党は戦後の1955年に2つの政党が1つになって誕生した。所謂(いわゆる)保守合同であり、野党も同様に合併して1955年体制が始まった。以来今日まで一時期を除くと、何度かの紆余曲折はあったが基本的にこの政党が政権を担ってきたことは国民がよく知るところである。
企業であれ政党であれその他団体であれ、組織は誕生からの歴史が長くなれば必然的に、様々な問題を抱えて行き詰まる。人間個人で言えば加齢とともに心身に異常が起こり、医者にかかり処方箋をもらって投薬治療や場合によっては入院手術ということになる。でも、人間個人の寿命には限界があっていつの日か生命は尽きる。組織や団体が人間個人と異なるのは、常に組織改革・意識改革ができることだ。これら改革を時代の・社会の変遷とともに怠りなくすすめれば存続は可能となる。次代を担う人に上手にバトンタッチをタイミングよくすることも必須条件となる。でも、最重要事は改革よりももっと大事なことがある。この点について次稿で掘り下げて述べてみたい。
ところで、平成が終わり令和になって6年目も早や新緑の季節となった。草木は一斉に青々と茂り生命力を感じさせてくれる。その生命力にあやかりたいところだが、我が国の現状では無理な相談だ。というのも、その自然が厳しい顔を見せているのだ。そう自然災害が次々と襲っているのが現実だ。令和6年が明けたその日、つまり元日に能登地方を震度7の巨大地震が襲ったのだ。正月そうそうこのような大きな災害は長い日本の歴史でも経験の無いことではないか。多くの石川県民が被災、本格的な復旧・復興は緒についたばかり。元通りの生活が1日も早く来ることをお祈りしたい。因みに、能登半島地震で被災された県民を慰問するため、天皇皇后両陛下は一度ならず二度も足を運ばれたことをつけ加えておく。
明治の物理学者で随筆家の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやって来る」といったが、近年、その格言は当てはまりそうにない。特に、1955年の阪神・淡路大震災以降はまったくその感を強くする。阪神・淡路(震度7)を含めそれ以降の約29年間で、震度7以上の大きな地震は7回以上発生している。2004年に新潟中越、2011年の東日本、2016年熊本(震度7が2回)、2018年北海道胆振、今回の能登半島。参考までに、震度6が2回(2018年大阪北部、2024年4月17日豊後水道)。因みに東日本大震災の復興事業はまだその途上であり、この先東電の廃炉関連作業など気の遠くなるような問題が待っている。このように羅列すると阪神・淡路から日本の大地が大きく「ぐらぐら」揺れているのがわかる。大地だけではない。毎夏、日本各地で大雨による水害が頻発しているのだ。つまり、上(空)から下(大地)から自然界がこれでもか、これでもかと国民に迫っているようにも感じるが、これも杞憂か
安倍政権時、ある高名な大学教授(内閣官房参与・国家ビジョン研究会メンバー)は、「国土の強靭化」を強く叫ばれていたことを記憶しているが、国民の努力や人知をあざ笑うかのような圧倒的に巨大な自然界の力を前に為す術もなく立ち尽くす以外にないのか。否、どのようなことがあっても克服していかねばならないと考える。私たちの先人も災害多きこの国土の中で「知恵」を絞り血の滲む努力をして歴史を刻んできたのである。ある時は優しく、ある時は厳しく、人間に迫ってきたからこそ人間は精神的に鍛えられたのかも知れない。つまり、「精神の強靭化」である。もちろん、自然は災害を齎(もたら)すだけではない。災害以上に途轍もなく大きな恵みを人に与えるのである。この恵みがあるからこその人間を始めとする生命体は生命を持続し子孫を残してきたのである。厳しく迫る「自然」と、優しく包み込むような慈愛に満ちた「自然」と、まるで正反対の表情を示す「自然」、一体どちらが本当の「自然」なのや。
科学は、特に地球物理学は地球世界の構造やその動きを研究対象にしているようだが、まだまだ真の自然界を究明しているとは言えない。地震の構造や大気の循環など多様な表情を示すこの地球の構造は謎の領域も多くあるのだろう。つまり、惑星地球の真のメカニズムやリズムを解明していないということだ。例えば、地球の地下構造や大陸プレートの動きを真に解明できたら、地震予知も正確にできるようになろうが、その地震の予知さえできていないのが実情だ。地震予知がせめて天気予報や台風の接近、風速、上陸地点なみに予測可能になれば人的被害も物的被害も格段に少なくなるだろうに。これは無理な願望か。でもいつかできるようになるだろうと信ずる。いや信じたい。科学は不可能と思われたことをこれまでも実現してきたのだから、その可能性はあるはずだ。
先述したことであるが、地球は実に様々な表情を持つ。常に恵み多き優しい姿を私たちに見せてくれればいいがそうはならない。近年は厳しい顔を人類全体に見せることのほうがずっと多いように思える。先日の新聞記事を読んで驚いたことの一つは、我が国に限ったことだが、今年に入って震度5以上の地震は20回発生しているらしい。この回数は異常に多い。この多さは何を物語るのか。次回は、この点について私なりの持論をそれを中心に述べることにしてこの稿を終えることにしたい。少し前書きが長くなったことをお詫びして筆を擱(お)く。