【戦争をなくすには――南極方式とコスタリカ方式と】

2019.9.15

 
思想・理念部会委員 柴田鉄治(元朝日新聞論説委員)
「ジャーナリズムの使命は権力の監視にある」という言葉がある。権力だけでなく、社会のあらゆることをチェックするのがメディアの役割だが、権力の監視のなかでも最も大切なのが「戦争を起こさせない」ことだ。権力者のなかには、ときに戦争を起こしたがる人がいるからだ。
 ジャーナリズムの役割は、平和を守ることだと言い換えてもいいが、平和には二種類ある。誰もが武器を持たず、争いを武力で解決しようとはしない「真の平和」と軍事力のバランスで保たれる「仮の平和」である。
 戦後の日本は、戦争を放棄した憲法9条のもと、「真の平和」を目指してスタートしたが、米ソ対立の激化でその後は自衛隊と米国の核の傘という「仮の平和」の中にいる。しかし、自衛隊の軍備は、日本が武力攻撃を受けたときだけ戦うというもので、海外の戦争には一切かかわらないという点では、半分は「真の平和」を捨ててはいなかった。
 ところが、安倍政権になって、「日本を取り巻く安全保障環境の変化」を理由に、「真の平和」の部分は捨て、「仮の平和」一本に絞ろうという方向に動き出した。戦後一貫して憲法違反だとしてきた集団的自衛権の行使を閣議決定で解釈を変え、米国の戦争にも参戦する道を開くと同時に、米国の軍事力(抑止力)による「仮の平和」を保とうとする方向へ舵を切ったのである。
 それでいいのだろうか。軍事力(抑止力)のバランスで保つ「仮の平和」というのは、どうしても軍事力の強化という軍拡競争に走り出す危険が伴う。北朝鮮が国民の飢えも放置して核兵器やミサイルの開発に全力をあげているのも、「抑止力」のためだと主張しており、それに対抗して韓国も日本も「核兵器を」と言い出したら、世界はどうなるのか。
 抑止力による「仮の平和」は、パワーバランスが崩れたり、あるいは、暴走する国が現れたりすれば、平和は崩れ、核戦争が起こってしまうのだ。
 したがって、戦争をなくすには、「仮の平和」ではなく、「真の平和」を目指さねばならないことは、いうまでもなかろう。

■「真の平和」を実現しているところが地上に二つ、南極とコスタリカと

 いま、この地球上に「仮の平和」ではなく、「真の平和」を実現している場所が二つある。南極大陸と中米の小国、コスタリカである。
 南極大陸は、日本の約40倍もある世界で6番目に大きな大陸だが、1959年に制定され、61年に発効した南極条約によって、「国境もなければ、軍事基地もない」人類の共有財産ともいうべき「平和の地」になっている。
 私が子どものころからの夢だった科学者への道をあきらめ、ジャーナリストになったのは、「二度と戦争はご免だ」という私のもう一つの夢を実現するために、新たな道を選んだ結果だった。そして、科学者として参加する予定だった南極観測に、新聞記者になっても参加できたのだから、何とも幸せなことだった。
 私が同行記者として参加したのは、1965~66年の第7次観測隊だったが、国際地球観測年(IGY1957~58)が終わって、米国の提案で59年に南極条約が制定され、61年に発効した直後のことである。
  IGY でのソ連の大活躍に恐れをなし、「ソ連が南極に軍事基地を設けたら大変だ」との思いが提案の動機だったが、一方、ソ連のほうも同じ思いがあり、いわば米ソの相互不信が生んだ条約だった。しかし、出来上がったものは、人類の理想を実現した「理想の条約」だったのだ。
 第1条に軍事利用の禁止を、2条、3条で科学観測の自由をうたい、第4条で領土権を凍結し、第5条で核実験や核廃棄物の処理の禁止を定めている。まだ原発が動き出してから間もない時期だったというのに、これを定めた先見の明はすごいものだ。もし、南極条約がなかったら南極は世界中の「核のゴミ捨て場」になっていたかもしれないのだ。
 私は7次隊の帰途、昭和基地の東隣りにあるソ連のマラジョウジナヤ基地を訪ねたとき、当時はまだ東西対決の厳しい時代だったのに、心温まる大歓迎を受けて南極条約の素晴らしさを実感した。
 その3年後、日本の極点旅行隊を南極点で出迎えるため、米国隊に頼んで南極点にある米国の「アムンゼン・スコット基地」を訪ねたときも、日本の旅行隊員にベットを提供し、自らは長椅子に寝るというほど米国隊の歓迎ぶりもすごかったし、40年後の第47次観測隊に同行取材したときは、ドイツ隊との共同観測の進め方に心がときめいた。
 こうした南極観測の実体験から私の得たものは、「世界中を南極すれば、戦争はなくせるぞ」という確信だった。南極大陸のように国境もない地球をひとつの国家にすれば、軍隊は要らなくなり、戦争もなくせるからである。
 そこで私は、47次隊の帰国後、南極の語り部となり、「世界中を南極にしよう!」と講演をして歩くことを仕事としようと心に決めた。

■南極の語り部に。「世界中を南極にしよう!」と世に訴える

 しかし、私ひとりでは、語り部の力も知れている。それに、国家をなくそうという考え方が、そもそも「時代離れ」をしている。たとえば、外国旅行をするのに必要なパスポートは、国家が出してくれるもので、これがないと海外にも行けない。
 つまり、世界中を南極にするには、私の世代ではとても無理で、次の世代のやることだろう。そこで、次の世代にそのことを伝えるにはどうすればよいのか。すぐに思い浮かんだことは、中高生を南極に送り出すことだった。
 しかし、日本の夏休みは南極では極夜で、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、チリなどの南半球の国々とは違って、夏休みの活用ができない。
 そこで私が考えたのは、小・中・高校の教員を南極派遣することだった。国立極地研究所の所長で、70歳の私を南極へ行くことを認めてくれた渡辺興亜所長をはじめ、次の藤井理行所長、さらに次の所長、白石和行氏(第47次観測隊長として私を連れて行ってくれた人)みんな賛成してくれた。
 そのうえ、運よく第51次隊から観測船が4代目の「新しらせ」に代わり、同行人員が急増できることもあって、毎年2人の教員派遣も決して無理ではないことが分かった。
 日本には小・中・高校の教員は、ざっと100万人もいる。毎年2人ずつでは微々たるもののように思われがちだが、そうではない。すでに10年経ったから20人、50年経てば100人…。その教員たちが自校だけでなく隣近所の学校にまで出かけて、南極の話をするようになれば、その影響力は極めて大きいものになる。
 そのうえ派遣教員のネットワークを創り、教員同士互いに情報交換をして活動を続けられれば、その効果は計り知れない。

■コスタリカは日本のあとに憲法で非武装宣言、軍備費をすべて教育費に

 もう一つの「平和の地」コスタリカについては2018年、「コスタリカの奇跡」という映画と講演の会が東京であり、私はそれに出席して初めて知ったのだった。
 コスタリカの憲法は、日本国憲法よりやや遅れて1949年、フィゲーレス大統領の英断で「非武装中立」をうたった。日本の憲法9条は、その後の朝鮮戦争や米ソ対決から自衛隊を創設し、「仮の平和」に舵を切ったことは前述の通りだが、コスタリカは非武装中立を守り、軍備費をすべて教育費に回して、「軍隊なし」を守ったのだからすごい。
 コスタリカはそれまで平和国家だったわけではなく、内戦も絶えない国だったのだが、 憲法ができてからは非武装を守り通し、紛争は国際機構に訴えて解決するという方式を堅持している。1987年には当時のアリアス大統領がノーベル平和賞を受賞。2017年の国連総会では「核兵器禁止条約」を提案、議長国を務め、122か国の賛同を得て採択され、現在、発効に向けて各国の批准が続けられている。唯一の被爆国、日本の安倍政権は、米国に同調して反対しているが…。
 非武装中立を堅持するには、教育が何よりも大切だという同国の考え方の根底には、「憲法に書かれた理想は守らなければならない」という発想がある。選挙を大切にし、大統領選挙には子どもたちにも模擬投票券を配って、その投票結果まで公表しているのだ。
 私は、コスタリカのことを知ってから、南極方式がいいのか、コスタリカ方式がいいのか、考えあぐねている。戦争さえなくせれば、どちらの方式でもいいのだが、要は、どちらの方式が実現しやすいか、だ。
 世界中を一つの国家にして、各国の大統領を「知事」のように扱えば一気に進むのではないかとも思ったが、コスタリカのような国が、少しずつでも増えていく方が案外、早いのかもしれない。どちらでもいい。核戦争が起こる前に間に合えば…。