会員コラム

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【東京空襲の記憶

伊賀山欣也(国際外交・安全保障問題分科会委員 2020.02.09)

 夜空に空襲のサイレンが鳴り響いた。
座敷で父母と寝ていた4歳の私は揺り起こされ、母に手を引かれて庭の防空壕に跳び込んだ。
 程なく上空に米軍の新鋭大型爆撃機B29の大編隊が飛来し、それを探照灯の光芒がむなしく追いかけるのが見えた。
 その防空壕は、当時は銀行勤めであった父が日曜日ごとに借家の庭に深さ1メートルほどの穴を掘り戸板や畳をかぶせただけの心細いもので、兄たち二人と合わせた家族5人には狭すぎ、爆弾が一つでも落ちれば吹き飛びそうな代物ながらそこにもぐると安心感があった。しかし、真夜中のサイレン音と大型機の編隊の爆音は幼い私を怖がらせた。

 当時の我家は中央線沿線の吉祥寺近くにあった。幸い家族は無事に終戦を迎えたが、戦時記録を見ると、昭和19年秋以降米軍は東京下町の焼夷弾爆撃に加えて、中央線のレールに沿って飛来して吉祥寺の先の三鷹にあった中島飛行機の工場の爆撃を始めた。この工場は当時の日本の最新型戦闘機のエンジンを製造する重要な軍需工場であったため、米軍から前後10回以上の爆撃を受け、200余名の殉職者と500名を超える負傷者を出したことを知った。

 私の戦争体験は夜中のサイレン音、爆撃機の轟音、探照灯の光、そして小さな防空壕だけにすぎないが、焼夷弾の絨毯爆撃による火の海の中に幼児も含めて多数の同胞がいたのだ。 
 そして、現在の中東動乱の戦火の中で必死に生き延びるシリアやイラクの市民達の様子を紹介するTV報道や映画を観る度に、このささやかな戦時体験が記憶に甦る。 
 今の世においても世界の片隅で絶えざる空襲や砲撃の下で怯える幼児達がいることに想いを致さずにはいられない。<了>